詩篇73篇「神のみそばにいる幸い」

 今日は5月の第1主日ということで、今年の年間テーマに関連するみことばにともに聴いていきたいと思います。年間テーマは「先立って進まれる主とともに」ですけれども、先月は創世記12章のアブラムの物語から、先立って進まれる主の招きに応えるときに与えられる豊かな祝福、当てもなくさまよう「放浪者」から、生きる目的を見つけた「旅人」に生まれ変わるという祝福について教えられました。主とともに歩む時、そこには大きな祝福が用意されている、聖書はその約束を繰り返し語っています。

けれども、現実はそんな簡単なものじゃない、というのが私たちの正直なところではないでしょうか。主とともに歩む、それは確かに素晴らしい。そう生きたいと願っている。だけれども、現実はなかなか厳しい。神さまへの信頼が揺らぎそうになる。そのような現実がこの地上にはあります。

今日私たちが開いている詩篇73篇では、まさにそのような信仰者の葛藤が、正直なことばで赤裸々に語られています。この詩篇を読み解きながら、主とともに歩む中で苦難に直面したとき、私たちはどのように考え、歩んでいけばよいのかについて、みことばから教えられていきましょう。

1節「まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに」。素晴らしい信仰の告白から始まります。ここで詩人は真理をズバリ言い当てています。神さまはどういうお方か、「神さまはいつくしみ深い方であられる」。彼はこの「正しい答え」「正解」を知っていました。正しい信仰をもっていた。素晴らしいことです。

しかし続く2節、「けれどもこの私は 足がつまずきそうで 私の歩みは滑りかけた」。あれだけ立派な「正解」を告白した詩人が、早速つまずきそうになっています。一体何があったのか。3節以降、詩人は現実を語り始めます。3-5節「それは 私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶる者をねたんだからだ。実に 彼らの死には苦痛がなく 彼らのからだは肥えている。人が苦労するときに 彼らはそうではなく ほかの人のように 打たれることもない」。詩人がつまずきそうになった理由、それは、この世界で悪が栄えている現実でした。「神さまはいつくしみ深い方で、心の清い人たちに祝福を注いでくださる」、詩人はその「正解」を頭では理解していました。そう信じ、告白していた。けれども現実はどうか。真逆です。悪が栄え、心の清い人たちが虐げられている。「正直者は馬鹿を見る」ということばがありますが、まさにそれが世界の現実じゃないか。神さまはいつくしみ深いお方じゃないのか。一体神さまは何をされているんだ。詩人はこの世の現実を前に、つまずきをおぼえたのです。

6節から12節では詩人の苦しみの叫びがさらに続きます。「それゆえ 高慢が彼らの首飾りとなり 暴虐の衣が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ 心の思い描くものがあふれ出る。彼らは嘲り 悪意をもって語り 高い所から虐げを言う。彼らは口を天に据え その舌は地を行き巡る。それゆえ この民はここに帰り 豊かな水は彼らに汲み尽くされる。そして彼らは言う。『どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。』見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している」。

その現実の中にあって、ある一つの感情が詩人を襲います。13-14節「ただ空しく 私は自分の心を清め 手を洗って 自分を汚れなしとした。私は 休みなく打たれ 朝ごとに懲らしめを受けた」。詩人を襲った感情、それは「空しさ」です。神さまに従って生きているのに、自分を清く正しく保っているのに、何もいいことがない。むしろ苦しみは増していくばかり。こんな空しいことがあるだろうか。清く正しく生きている自分がとても空しくなってくる。

しかもその空しさから抜け出す手立ては見つかりません。15-16節「もしも私が『このままを語ろう』と言っていたなら きっと私は あなたの子らの世代を 裏切っていたことだろう。私は このことを理解しようとしたが それは 私の目には苦役であった」。自分が抱えているこの不満をどこかにぶつけたい。けれどもそれを他の人にぶつけたら、きっと他の人をつまずかせてしまう。神さまを裏切る結果になってしまう。そうなると、自分自身の内にその不満を抱え込むしかありません。けれども、自分自身の中でいくら考えても、この不条理を理解することはできない。神さま、一体なぜですか。あなたはどこで何をされているのですか。心の中で叫ぶしかない状況です。

しかし、自分の力ではもうどうしようもない、その状況にまで追い詰められた時、一大転機が訪れます。17節「ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った」。ギリギリまで追い詰められた中で、「ついに」彼は神の聖所に入った。これは、神さまの臨在の中に入っていった、神さまに会いに行ったということです。自分の力、悟り、信仰の限界を知り、ついに自ら神さまを求めてその臨在の中に入っていった。その時、詩人は悟ったのです。18-20節「まことに あなたは彼らを滑りやすいところに置き 彼らを滅びに突き落とされます。ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅し尽くされます。目覚めの夢のように 主よ あなたが目を覚ますとき 彼らの姿を蔑まれます」。詩人が悟ったこと、それは、この悪が満ちているように思える現実も、全て神さまの御手の中にある、ということでした。確かに今は悪が栄えているように思えるかもしれない。しかし、神さまはやがて必ずこの地上に真の正義をもたらしてくださる。正直者が馬鹿を見るこの世の現実を正してくださる。詩人はそれを悟ったのです。それはつまり、この地上の現実を超えたところにある、天の現実に目が開かれたということです。この地上ではなく、天を見上げることを知った、そこに希望があることを知った、詩人の姿がここにあります。

そして天の現実に目が開かれた詩人は、この地上の現実の中でもがいていた過去の自分を振り返ります。21-22節「私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき 私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」。今振り返ると、あの時自分は何も分かっていなかった。1節で「神はいつくしみ深い方」と口では告白してはいたけれども、その本当の意味を何も分かっていなかった。あなたの深いご計画など何も分からないまま、ただ愚かで考えもなく、苦しみに対して条件反射的に牙をむく獣のような存在だった。詩人は悔い改めへと導かれたのです。

では、獣のようだった彼は一体どうやってそこから立ち直ったのでしょうか。23-24節「しかし 私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。あなたは私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます」。苦難の中にあっても、絶えず神さまとともにいたこと、どんな痛みの中にあっても、心の中が不満で満ちていたとしても、神さまから離れなかったこと、それが詩人が苦難を乗り越えることができた理由でした。けれども、それは詩人自身の力によってではありません。自分としては、神さまから離れないように一生懸命自分を保っているつもりだった。けれども、実は、神さま、あなたの方が私の右の手をしっかりとつかんでいてくださったんですね。あなたが私を支え、手を引いて導いていてくださっていたからこそ、私はあなたから離れずに済んだんですね。そしてあなたはこんな私をこれからも導き続けてくださる。栄光の内に受け入れてくださる。あなたはなんといつくしみ深い方なのでしょうか。

25-26節「あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。地では 私はだれも望みません。この身も心も尽き果てるでしょう。しかし 神は私の心の岩。とこしえに 私が受ける割り当ての地」。いつくしみ深い神さまを心の底から知り、天の現実へと目が開かれた詩人は、この地上への執着を捨てました。周りの状況は変わっていません。この地上では相変わらず悪が栄えています。不条理がまかり通っています。この身も心も、いつかは尽き果ててしまうでしょう。けれども、天には、神さまの御国には、この地上とは比べ物にならないほどの素晴らしい喜びがある。詩人はそれを悟りました。だから、もうこの地上では何も望みません。ただ神さま、あなたがいれば、それで十分です。美しい信仰の告白です。

そして最後、27-28節「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き 不実を行う者を あなたはみな滅ぼされます。しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。私は 神である主を私の避け所とし あなたのすべてのみわざを語り告げます」。これこそが、苦難を通して詩人が辿り着いた、真の信仰の告白です。1節と比べるとそれがよく分かります。1節の告白、これは「正しい」信仰でした。そこに間違いはありませんでした。けれども、詩人はまだその信仰を本当の意味で自分自身のものにはしていませんでした。1節の後半では、「イスラエルに 心の清い人たちに」とありますが、これはどこか詩人自身はそれを外から客観的に見ているような、そんな印象を受けます。それに比べて、28節はどうでしょうか。「しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです」。「私」の信仰告白になっている。苦難の経験を経て、詩人は1節の信仰告白をついに自分自身のものにしたのです。

苦難を通して深められる信仰。このことを今日私たちはこの詩篇からおぼえていきたいと思います。主とともに歩む人生、そこには多くの困難があります。正直者は馬鹿を見る、この世の現実があるかもしれません。その中にあって私たちは不満を抱くことがあるでしょう。神さまなぜと文句を言いたくなることがあるでしょう。しかしたとえそうであっても、何よりも大事なのは、絶えず神さまとともにいること、いや、絶えずともにいてくださる神さまに気づくことです。どんな状況にあっても、神さまは私たちの手をしっかりとつかみ、前に進んでいこうと手を引いてくださっています。その神さまに出会うとき、私たちは、神さまのみそばにいること、これに勝る幸いはないということを知るのです。

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