マルコ7:24-30「大胆な信仰」

マルコの福音書の連続講解も今日で7章の後半に入ってきました。これまで私たちはイエスさまが様々な人と議論されている姿を見てきました。その多くはパリサイ人・律法学者たち相手だったわけですが、その都度、イエスさまは気持ちがいいほどに彼らを完璧に論破して、議論に打ち勝ってきました。向かうところ負けなしのイエスさまだったわけです。

しかし今日の箇所はどうか。ここではイエスさまとシリア・フェニキア生まれの女性との間の議論のようなものが記されているわけですが、ここに来て、イエスさまが議論に負ける姿が初めて描かれています。そしてなんと、福音書を通して読んでも、イエスさまとの議論に勝ったのはこの女性ただ一人です。今日の箇所はそういう意味で、福音書の中でも「異色」な物語だと言うことができるかもしれません。一体この女性の何がイエスさまを動かしたのか。この女性がもっていた信仰とはどのようなものだったのか。ともにみことばの世界に入っていきましょう。

 

異邦人の女性

今日の箇所は、この前の箇所とのつながりの中で読むのがポイントです。前回私たちは、人を汚すのは食べ物のような人の「外」から入ってくるものではなく、人の「内」にある心なのだということを学びました。するとどういう結論が導き出されるか。ユダヤ人が大切にしていた食物規定は全く意味がないということになります。すべての人は主の前に等しく罪人である。そこにはユダヤ人も異邦人も関係なくなるわけです。じゃあイエスさまは果たして異邦人にどのように関わっていくのか。それを描いているのが今日の箇所です。

けれども、イエスさまは私たちの期待を裏切るような反応を見せます。25-27節「ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。するとイエスは言われた。『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。』」イエスさま急にどうしちゃったんですかと言いたくなるような、冷たい反応です。前の箇所ではユダヤ人も異邦人も関係ないみたいなことを言っていたのに、結局ユダヤ人優先なんですか。がっかりですよ。そういうふうに思う方もいらっしゃるかもしれません。

ここでまず、イエスさまがおっしゃったことの内容を確認したいと思います。ここでの「子どもたち」というのは、ユダヤ人のことを指しています。対して「小犬」とは異邦人のことです。当時のユダヤでは、異邦人のことを「犬」と呼ぶ習慣があったようです。もちろん差別的な意味を込めてです。イエスさまはそれを少し和らげる意味もあって、「犬」ではなく「小犬」と言われたのかもしれません。いずれにせよ、あまりいい表現ではありません。そしてここでの「パン」は神さまの祝福を表しています。ですからイエスさまはここでこう言われているわけです。「私はまずユダヤ人に神さまの祝福を伝えなければいけない。その役割を途中で放り出して、異邦人に祝福を届けるのは良くないことでしょう」。

ここで注意しなければならないのは、イエスさまは異邦人のことなどどうでもいいと言っているわけではないということです。ただ、イエスさまが父なる神さまから与えられた第一の使命、ミッションは、堕落した主の民イスラエルに回復をもたらすことでした。ですからイエスさまはユダヤの地に生まれ、そこで活動をされたのです。そして十字架と復活によってイスラエルに回復がもたらされた後、ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち壊し、新しいイスラエルを通して主の祝福が全世界に及んで行くようにする。そこには順番、秩序があったわけです。ですからイエスさまは「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません」と言って、はじめにユダヤ人、そこから異邦人、全世界という救いの歴史の秩序を明らかにされたのです。イエスさまには、異邦人が祝福を受けるのは次の段階だから、もう少し待ちなさいという意図があったのかもしれません。

 

女性の信仰

しかし、女性は引き下がりません。28節「彼女は答えた。『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます』。「あなたも他のユダヤ人たちと同じように異邦人の私を『犬』と呼んで蔑むんですね。あなたに期待した私が愚かでした。もうあなたには絶対頼みません」、そのような反応もあり得たはずですが、女性はそれでもあきらめずに、なんとか娘を治してもらおうと、イエスさまを説得にかかります。するとイエスさまは折れて、こう言われました。29-30節「そこでイエスは言われた。『そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた」。

女性に説得されたイエスさま。女性の何がイエスさまを動かしたのか。ここで注目したいのは、女性の姿勢です。25節を見ると、彼女はやって来てイエスさまの足もとに「ひれ伏した」とあります。女性はずっとひれ伏したまま、イエスさまと議論をしたのです。ここに、パリサイ人や律法学者たちとの違いがあります。パリサイ人や律法学者たちはイエスさまと議論をする時、なんとかして自分たちがイエスさまの上に立とうとしていました。イエスさまを打ち負かそうとしていた。けれどもこの女性はどうか。初めからイエスさまの足もとにひざまずき、「主よ」と呼びかけ、自らをイエスさまの権威の下に置いたのです。

そしてもう一つ重要なのは、女性はイエスさまのことばをそのまま受け入れているということです。「あなたの言っていることはおかしい!異邦人のことを犬と呼ぶな!私のことも対等に扱え!」、女性はそうは言っていません。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」、自らが小犬であることを受け入れています。ユダヤ人から異邦人へという救いの歴史の順序も受け入れています。自分は現時点で神さまの祝福を受けるに値しない存在であることを受け入れていたのです。それを受け入れた上で、イエスさまの恵みを求めました。「イエスさま、あなたのおっしゃることはもっともです。しかしイエスさま、あなたの恵みはユダヤ人だけに留まるものではないでしょう。あなたの恵みはもっともっと大きいのではないですか」。

 

恵みの大きさに信頼する

ここで私たちは「恵み」とは何かを覚えたいと思います。私の尊敬する苫小牧の水草先生は、「恵み」をこのように説明していました。「恵みとは、それを受けるに値しない者が受ける神からの不当な祝福である」と。この女性は、自分が神さまの恵みを受けるに値しない者であることを知っていました。しかし同時に、それを超えるイエスさまの憐れみ深さに信頼をしていました。主の恵みの何たるかをよく知っていたのです。だから、女性は自分を取り繕うことなく、ありのままの小犬の姿で、イエスさまの憐れみにすがることができた。そしてイエスさまはそんな女性の信仰をよしとされたのです。29節で「そこまで言うのなら」と訳されていることば、口語訳という翻訳では「その言葉でじゅうぶんである」と訳されています。その言葉でじゅうぶん。わたしはあなたの信仰を確かに受け取った。そのようにして、イエスさまの救いの御業は本来よりも一足早く、異邦人のもとに届けられていったのです。

この女性の信仰の姿に私たちは教えられたいと願います。「祝福してください」「恵みを注いでください」、私たちはよく祈ります。そう祈る時、「自分は祝福を受けて当然」「恵みを注がれて当然」、どこかそのような意識がないでしょうか。けれども私たちは決して神さまの祝福を受けて当然の人間ではありません。本来であれば神さまに見捨てられてもしょうがない罪人です。祝福を受けるに値しない者です。宗教改革者のマルチン・ルターは、「われわれは神の乞食である」ということばを残しました。強いことばです。今の時代は好まれないことばかもしれません。しかし、そこに彼の信仰の姿勢が確かに表れています。私たちは神さまの祝福を受けるに値しない、神の乞食。その事実を私たちは受け入れなければなりません。

けれども、それは決して私たちが卑屈になるということを意味しません。祝福に値しない自分、神の乞食である自分を知ることによって私たちは初めて、そんな自分にも用意されている溢れんばかりの主の恵みの大きさに気づいていくのです。「恵みとは、それを受けるに値しない者が受ける神からの不当な祝福」。自分に与えられているのは不当な祝福なんだ、そのことに気づく時、私たちの内に神さまへの賛美と感謝が生まれてきます。これが主の恵みです。溢れんばかりの恵みです。へりくだりの中で初めて分かる主の恵みの大きさ。この恵みを、神さまの不当な祝福を見上げつつ、この女性のように、大胆に、信仰をもって、主の御前にひれ伏していきたいと願います。

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