使徒の働き2:1-13「神の国の景色」

 

今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝です。イエスさまが天に昇られた後、助け主として聖霊さまが遣わされ、この地上に教会が誕生したというのがこのペンテコステの日です。教会にとって重要なこの日に、ともに集うことができないのは大きな痛みではありますが、その分、私たちには目に見えるつながり以上に、目には見えないけれども確かに存在する、聖霊によるつながりが与えられていることをおぼえ、それぞれの場所でみことばに聴いていきましょう。

 

聖霊の降臨

今日開かれているのは、使徒の働き2章、ペンテコステの出来事を記している箇所です。このペンテコステの出来事は非常に豊かな意味をもっていますが、今日はその豊かな意味の中から、「ことば」という側面に注目していきましょう。イエスさまが昇天された後、ともに集まっていたところに突然激しい風が吹き、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまり、聖霊に満たされた弟子たち。そこでまず起こったのは、4節にあるように、「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」ということでした。そしてちょうど弟子たちの周りには、ペンテコステを祝うために世界各地から集まってきていたユダヤ教徒たちがいたわけですが、彼らはガリラヤの田舎者が自分たちの国のことばを自由に操って話しているのを聞いて、呆気にとられました。7-11節「彼らは驚き、不思議に思って言った。『見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは』」。

よく分からない地名がたくさん出てきますが、ここでは今でいう中近東全体、北アフリカ、そしてイタリアのローマまでをも含む、非常に広い地域の名前が挙げられています。それぞれの地域で話されている言語をあわせたら相当な数になったことでしょう。しかしなんと、いかにも無学そうなガリラヤの田舎者たちが、その無数の言語を自由に操って神さまのことを証ししている。その光景を見て驚いている人々に対して、この後ペテロはイエス・キリストことが真の主であることを大胆に語っていくのです。

 

ことばの分裂

主の民があらゆる言語で神さまのみわざを語り始める。この出来事を聖書全体の中で捉えていく時、思い出されるのは創世記11章に記されているバベルの塔の出来事です。ともに開いて確認しましょう。創世記111-9節(旧15-16頁)です。かいつまんで内容をお話ししますと、はじめ人類は一つのことばを話していましたが、ある時、彼らは自分たちの名をあげるために天にまで届く高い塔を建てようとします。人類は一つになって、この地上を治める神になろうとしたのです。しかし唯一真の神さまはそれをご覧になって、これ以上人間が傲慢にならないように、彼らのことばを混乱させます。するとどうなったか。8-9節「主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである」。互いにことばが通じなくなった人間は、ともに力を合わせ、協力するということができなくなり、塔の建設を諦めざるを得なくなった、それがバベルの塔の出来事でした。

このバベルののろいの痕跡は、その後の歴史を見ても一目瞭然です。世界の歴史を見ても、言語間、民族間の争いが止んだことはありません。今もそうです。世界を見渡せば、人種差別、ジェノサイド、民族間の抗争、領土の奪い合い、様々な悲惨な出来事が毎日のニュースに上がってきます。日本も例外ではありません。止まないヘイトスピーチ、移民の受け入れの問題、技能実習生の劣悪な労働環境、問題は山積みです。話し合えばもっと分かり合えるはず、なぜもっと話し合わないんだ、私たちはそう思いますが、ことはそう単純にはいかない。一向に解決は見えてきません。今のこの世界を見ても、バベルののろいは確かに生きている、そのように認めざるを得ないのではないでしょうか。

 

「バベルののろい」から「神の国の祝福」へ

ではこの世界に希望はないのでしょうか。そうではありません。私たちはこの世界にもたらされた確かな希望を知っています。バベルののろいへの解決がすでに与えられていることを知っています。それが、このペンテコステの出来事です。人類が神さまを越えようとした結果もたらされた言語の分裂。そのバラバラにされた言語が、このペンテコステの日、聖霊さまを通して、一つになって唯一真の神さまへの礼拝、賛美を始めたのです。使徒2:11それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」。唯一真の神様への礼拝、賛美の中で、バラバラにされた言語が一つになっていく。これを奇跡と言わずして何と言うのでしょうか。

そしてここで大切なのは、言語はバラバラなままということです。神さまは聖霊によってバラバラにされた言語を一つの聖なる言語に統一したわけではありません。皆がヘブル語を話し始めたわけではありません。弟子たちはそれぞれの言語をもって、同じ神さまを礼拝し、賛美したのです。

ここに私たちは、ペンテコステの日、聖霊によってもたらされた「多様性の中の一致」を見ることができます。バベルののろいは今も生きています。言語も文化もバラバラのまま、そのままで分かり合うことには難しさが伴います。教会もそうではないでしょうか。言語、文化、人種に限らず、教会には様々な人が集っています。互いに分かり合うのが難しいことはたくさんあるかもしれません。どんな時も全員と仲良しというわけにはいかないかもしれない。しかしそれでも、私たちは唯一真の神さまへの礼拝を通して一つになることができます。言語、文化、人種、性格、価値観、そこには多様性があっていい。バラバラな人間が、一つの御霊を通して、唯一の神さまを礼拝するとき、「バベルののろい」は「神の国の祝福」へと変わっていくのです。

ピリピ人への手紙2章10-11節にはこうあります。「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」。すべての舌が「イエス・キリストは主です」とともに告白する、これこそが神の国の姿です。そして教会はそのような神の国の姿を映し出す共同体として、このペンテコステの日、神さまによって召し出されました。教会の中で多様性が増せば増すほど、神の国の景色はいよいよ豊かなものになっていきます。この神の国を、私たちはこの室蘭の地で拡げていきたいと願います。この素晴らしい神の国の景色を人々に知っていただきたい。そしてこの場所に留まらず、今も世界中に遣わされている宣教師を通して、神の国が世界中に拡がっていくことを祈り求めていきたいと願います。「バベルののろい」から「神の国の祝福」へ。この世界は福音を必要としています。

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