マルコ6:45-56「しっかりしなさい」

 

今朝開かれているのは、イエスさまが湖の上を歩くという箇所です。この箇所ですが、実は先月三浦先生が来られた際に、マタイの福音書の同じエピソードから説教をされました。私はその時点で、3月に自分がマルコバージョンの説教をするということが分かっていましたので、正直どうしようかな少し焦りました。けれども先週お話ししたように、それぞれの福音書には違った特徴がありますから、マタイの福音書にはマタイの福音書なりのメッセージ、マルコの福音書にはマルコの福音書なりのメッセージがあるわけです。実際、マタイの箇所にはイエスさまが湖の上を歩いた後にペテロもそれについて歩いていくという場面が描かれていますが、マルコの箇所にはその場面が描かれていません。これは何もどちらが正確でどちらが不正確かということではなく、同じ出来事を違った側面、視点から教えているということです。そのことをおぼえながら私たちは今朝、マルコの福音書が語るメッセージに耳を傾けていきたいと思います。

 

「そばを通り過ぎる」?

さて、このイエスさまが湖の上を歩くという箇所は福音書の中でも比較的有名なエピソードですので、教会に長く通われている方であれば何度も読んだり聴いたりしたことがあると思います。けれどもこの箇所、一つひとつのことばをじっくり味わっていくと、さらっと読んだだけでは見逃してしまいそうな不思議な記述がたくさん隠れていることに気づきます。たとえば45節、「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ」。「無理やり」なんてイエスさま、少し強引じゃないですか。あるいは48節「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」とありますが、イエスさまは山の上、弟子たちは湖の真ん中です。そこには相当な距離があったはずなのに、なぜイエスさまには弟子たちの様子が見えたのだろう。イエスさまの視力は一体いくつだったのだろうか。色々と疑問が湧いてきます。

その中でも私たちが今朝特に目を留めたいのは48節後半です。そこには、イエスさまは弟子たちの「そばを通り過ぎるおつもりであった」とあります。「え、なぜ」と思わないでしょうか。弟子たちを助けに来たのならすぐに弟子たちのもとに向かえばいいのに、そうはせずに、「そばを通り過ぎるおつもりであった」。ある人は、イエスさまは弟子たちを試そうとしたのだと言います。そばを通り過ぎて、弟子たちが気づくかどうか試そうとしたのだと。たしかにそれはあったかもしれません。ちょっと意地悪だなとも思いますが、そのような教育的な意図はあったかもしれない。

けれどもここで私たちが考えたいのは、旧約聖書の背景です。「そばを通り過ぎる」、このことばから連想される旧約聖書のエピソードが思い浮かぶ方はいらっしゃるでしょうか。一つ目はモーセです。せっかくなので開きましょう。出エジプト記33章の後半(旧161)です。この直前には、イスラエルの民が偶像礼拝に陥り、神さまが怒りを発せられるという、いわゆる金の子牛事件がありました。その後、一体この先どうしたらいいのだと意気消沈していたモーセに対して、神さまはモーセのそばを通り過ぎ、ご自身の栄光を見せることによって、モーセを力付けようとします。3322節「わたしの栄光が通り過ぎるときには」、また下の段の346節「主は彼の前を通り過ぎるとき」。ここで「通り過ぎ」と訳されていることばは、マルコの箇所の「そばを通り過ぎる」と同じことばです。旧約の時代、人間は神さまを直接見ることができませんでしたから、神さまは「そばを通り過ぎる」ことによってご自身の栄光を現し、ご自身がいつもモーセ・イスラエルの民とともにおられることを示そうとされたのです。

そして実はもう一人、「そばを通り過ぎる」神さまによって励まされた人物がいます。旧約聖書を代表する預言者エリヤです。これについてはⅠ列王19:11に記されています。時間の関係で今は開きませんので、関心のある方はぜひ後で確認してみてください。そこではバアルの預言者との対決の後、燃え尽きてバーンアウトしていたエリヤを励まし力付けようと、神さまがエリヤの「そばを通り過ぎ」、ご自身の栄光を現したと書いてあります。「そばを通り過ぎる」というのは、決して「スルーをする」という意味ではなく、全知全能の神さまが人間を励まし力づけるために、ご自身の栄光輝く姿を現すということを意味しているのです。

それを踏まえて、マルコに戻りましょう。ここではイエスさまが湖の上を歩いて、弟子たちのそばを通り過ぎようとされたとあります。実はこの水の上を歩くということ、旧約聖書の詩篇やヨブ記などを読むと、神さまだけができることとして描かれています。イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのそばを通り過ぎようとされたというのは、イエスさまが真の神さまであることの証し、そしてその真の神さまはどんな状況にあっても弟子たちとともにいてくださるということの証しでした。イエスさまは神の子として、向かい風の中漕ぎあぐねて疲れ切っていた弟子たちを励まし、力付けようとされたのです。ですから弟子たちに求められたのは、湖の上を歩いて自分たちのそばを通り過ぎるイエスさまを見て、「あぁ、イエスさま。まことにあなたは神の子です」、そのような信仰を告白することでした。

 

弟子たちの頑なな心

では、実際の弟子たちはどうだったでしょうか。49節「しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた」。なんというザマでしょうか。これまでイエスさまの数々の奇跡を見てきた弟子たち、直前には五つのパンと二匹の魚で五千人の男を養うという偉大な奇跡を体験した弟子たちとは思えない、無様な姿がここにあります。

毎日イエスさまと一緒にいて、イエスさまの顔も出立ちも背格好もよく知っていた弟子たちがなぜ、イエスさまを幽霊と勘違いしてしまったのか。おそらく弟子たちは、向かい風の中必死に舟を漕ぎ続ける中で、イエスさまの存在が頭から飛んでしまっていたのでしょう。考えてみれば無理もありません。イエスさまは弟子たちに別れを告げて、ひとり山の上に祈りに行かれました。それに対して、自分たちは湖のど真ん中にいる。そんな自分たちの目の前にイエスさまが突然現れるなどと誰が想像するでしょうか。あるいは湖が穏やかであれば、弟子たちも「イエスさまは山で何を祈っておられるのだろう」などと、イエスさまに思いを向ける余裕があったかもしれません。けれども湖は大荒れ。気を抜くとすぐに舟は向かい風で後ろに戻っていってしまう。必死に舟を漕ぐ中、いつの間にか弟子たちの意識からはイエスさまの存在が消えてしまっていました。

このような弟子たちの姿は、私たちと無関係ではないように思います。人生の向かい風にある時、私たちは必死に舟を漕ぎ、その荒波をなんとか乗り切ろうとします。手を抜いたら逆戻りしまう、あるいは最悪沈んでしまうかもしれない。なんとか力を尽くして前に進まなければ。私たちは必死になります。けれどもいくら必死に舟を漕ごうと、状況は一向に変わらない。疲労感だけが増していく。心の余裕は失われ、どんどん視野が狭くなっていきます。自分の力だけで頑張って舟を漕いでいるように思えてくる。そしていつの間にか、私たちの意識の中からもイエスさまの存在が消えていくのです。目を上げればそこにイエスさまがいるのに、私たちを励まし、力付けるために湖を歩いて来てくださっているのに、そのことにも気づかない。むしろ本来であれば怯える必要のないものにまで怯えて、私たちの心は恐怖で支配されていく。今日の弟子たちの姿に、私たちは自分の姿を重ね合わせることができるのではないでしょうか。

 

「しっかりしなさい」

では、イエスさまはそんな弱く惨めな弟子たちを見捨てて帰ってしまわれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。50節「そこでイエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」。「しっかりしなさい」、それがイエスさまのかけたことばでした。自分のことを幽霊だと勘違いした弟子たちです。その不信仰にがっかりするのが当然でしょう。「もうお前たちなど知らない」と言って山に引き返してもよかったはずです。しかしイエスさまはそうなさらなかった。弟子たちの弱さ、情けなさ、不信仰を正面から受け止めた上で、「しっかりしなさい」と力強く御声をかけてくださったのです。

このイエスさまの豊かな憐れみを私たちは今日最後におぼえたいと思います。イエスさまの憐れみというのは、私たちの弱さ、不信仰を見過ごしてくださるということではありません。そうではなく、私たちの弱さ、不信仰を真正面から受け止めた上で、「しっかりしなさい」とその力強い御声をもって私たちを再びそこから立ち上がらせてくださる。挫折と混乱、恐れから立ち上がらせてくださる。そして弟子たちとともにゲネサレの地に向かわれたように、私たちとともに舟を漕ぎ、ともに陸地を目指してくださる。それが私たちの主イエス・キリストです。

このイエス・キリストに目を留めながら、私たちは人生という名の舟を漕ぎ続けていきたいと願います。イエスさまは今日も、私たちを励まし力付けようと、私たちのそばを通り過ぎておられるかもしれません。信仰の目をもって、神の御子イエス・キリストの栄光輝く姿を仰ぎ見ていこうではありませんか。

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