マルコ6:30-44「羊飼いのまなざし」

 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、四つの福音書が収められていますが、その四つを読み比べるということをみなさんしたことがあるでしょうか。四つの福音書はどれもイエスさまの生涯について記していますが、それぞれに違った特徴をもっていまして、この福音書には記されているけれどもあの福音書には記されていない、という箇所も多くあります。例えばイエスさまの誕生の物語、これはマタイとルカにしか記されていません。4人の福音書記者は、聖霊に導かれつつ、それぞれの意図をもって福音書を記したわけです。
 そのような中で、四つの福音書すべてに共通しているエピソードというのもあります。まず挙げられるのは十字架と復活です。これはさすがに欠かすことはできない、私たちもよく分かるところです。ではイエスさまの奇跡物語はどうか。実は、四つの福音書に共通している奇跡物語は一つしかありません。それが、今日私たちが開いているいわゆる「五千人の給食」の物語です。おそらくこの出来事は弟子たちの記憶の中に深く刻まれていたのだと思います。
 そのような特別な物語とだけあって、今日の箇所は非常に豊かな内容をもっています。私も準備をする中でこの箇所を味わいながら、この箇所から最低でも3回くらいは説教できるなと思いました。この箇所から何回説教が語られても、その度に新しいメッセージが溢れ出てくる。もちろん聖書はどこを開いてもその箇所なりの豊かなメッセージをもっていますが、今日の箇所はその中でも特に味わい深いものであるように思います。

「緊急性」のない奇跡?

 このように、福音書の中でもある意味「特殊」なこの物語ですが、他の奇跡物語と比較した時に、特徴的な点がもう一つあります。それは、この奇跡には緊急性がなかったということです。他の多くの奇跡の場合、そこには人の生活やいのちがかかっていました。病気に苦しんでいる人々、悪霊に取り憑かれた人々、あるいは今すぐにも沈みそうな船、イエスさまの奇跡がどうしても必要とされる切羽詰まった状況がそこにはありました。
 けれども今回はどうでしょうか。よく読んでみると、今日の箇所で自ら苦しみを訴えている人はいません。人々が空腹だったとも、餓死しそうな人がいたとも書いていません。「そろそろご飯を食べさせてあげたらどうですか」というのはあくまでも弟子たちの気遣い、配慮でした。群衆もご飯にありつけることを期待して来たわけではありませんから、イエスさまの奇跡をどうしても必要とした人はおそらくほとんどいなかったと思うのです。普通に考えれば、そこに奇跡の必要性はありませんでした。ですから弟子たちは提案したわけです。「イエスさま、熱心に語るのはいいですけど、もう時間も遅いですし、群衆を解散させてあげましょう。そしたらみんなそれぞれ近くの里や村に行ってご飯を食べることができます」。至極真っ当な提案です。私やみなさんであってもそのように提案すると思います。

しかしイエスさまはどう答えたかというと、37節「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」。ちょっと信じられない要求です。弟子たちもさすがにこの答えは予想していなかったことでしょう。すると弟子たちはこのように言います。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか」。弟子たちのイライラが伝わってくる、皮肉たっぷりの答えです。「なんで私たちがそこまでしなきゃいけないんですか?ご飯の面倒まで見るなんて私たちの責任を超えてますよ!そもそもそんな量のパンを用意することなんてできるわけないじゃないですか!」一デナリというのは当時の一日分の給料と言われていますから、それを仮に一万円とすると、二百万円分のパンを用意しなければいけない、そんなバカバカしいことはありません。いくらイエスさまといえど無茶振りが過ぎます。弟子たちの苛立ちは私たちからすれば当然のことのように思えます。


はらわたのちぎれる思い

けれどもイエスさまは引き下がりません。それどころか、それが当たり前であるかのように、弟子たちに指示を出し始めます。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい」。イエスさまはどうしてもこの大勢の群衆に食べ物を分け与えたかった。一体何がイエスさまをそこまで動かしたのでしょうか。34節「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた」。深いあわれみ、これこそがイエスさまを突き動かしたものでした。以前にも少しお話ししたことがありますが、この「深くあわれみ」と訳されているギリシャ語は元々「内臓」を意味することばから派生したことばです。ある翻訳はここを「腹(はらわた)のちぎれる思いに駆られて」と訳しています。「はらわたのちぎれる思いに駆られて」、このことばは新約聖書の中で、イエスさま・神さまだけを主語として使われます。イエスさまは群衆を見て、はらわたがちぎれそうになるほどの痛みをその心に深くおぼえた。尋常ではないあわれみです。

ではイエスさまはなぜそこまでの深い深いあわれみをおぼえたのか。「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので」とあります。羊というのはとても弱く臆病な動物で、自分で自分の身を守ることができません。視力もとても弱いそうで、自分では牧草を見つけることさえできないようです。ですからもし羊飼いがいなければ、すぐに敵に襲われて食べられてしまうか、道に迷って餓死してしまいます。旧約聖書では、神さまという真の牧者からさまよい出てしまった神の民がしばしば「羊飼いのいない羊の群れ」と表現されています。私たちが祈り会で読んでいるゼカリヤ書でも最近この表現が出てきました。その他にも民数記、第一列王記、エゼキエル書などにも同じ表現が出てきますが、今日私たちがともに確認したいのはイザヤ書です。ともに開きましょう。イザヤ書536節(旧1259)です。そこにはこのようにあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」。

真の神さまを知らない、あわれな人間の姿がここにあります。何かに頼らなければ自分は生きていけない、そのような自分の弱さを分かってはいながらも、誰に、何に従ったらいいのかが分からない。近視眼的で、目の前に飛び込んできたものにその場しのぎで頼ってみるけれども、どれも偽りのものばかり。絶対的な存在は見つからず、正解が分からないまま、さまよい続ける人生。それが、私たち人間の、罪人の姿です。

イエスさまはそのような私たち人間に目を留め、はらわたがちぎれるほどの痛みをおぼえてくださいました。そして、この羊飼いのいない羊の群れを何とかして養いたい、そのような深いあわれみの心から、神さまのみわざを、奇跡を現してくださったのです。先ほども申し上げましたが、普通に考えればイエスさまにその責任はありません。イザヤ書で「それぞれ自分勝手な道に向かって行った」とあるように、真の羊飼いである神さまのもとを離れたのは私たち自身です。私たちの自己責任です。それぞれ自分の責任で食べる物を調達するように弟子たちが提案したのももっともです。イエスさまにはその責任は一切ありませんでした。けれどもイエスさまはその深いあわれみ故に、自己責任と言って私たちを突き放すのではなく、ご自身の御手の中で、羊飼いのいないあわれな羊の群れを包み込み、養いを与えてくださいました。39-40節には、イエスさまが群衆を組に分けて青草の上に座らせる様子が描かれています。これはまさに、真の羊飼いを見つけた羊の群れの様子です。そして真の羊飼いを得た群れは、羊飼いの大きな御手の中で、真の養い、何十倍、何百倍もの祝福を受け取っていくのです。


真の羊飼いなる主

真の羊飼いである主。羊の群れをガリラヤ湖畔、いこいのみぎわに伴い、青草の上、緑の牧場に座らせ、食卓を整えてくださる主。十二のかごにあふれるパン。豊かないつくしみと恵み。この情景を思い浮かべながら、最後に一篇の詩篇を読んで、説教を閉じたいと思います。詩篇23篇です(旧954)。一つ一つのことばを、今日のマルコの箇所のイエスさまのお姿と重ね合わせながら、この詩を私たち自身の告白としていきましょう。


主は私の羊飼い。

私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ

いこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ

御名のゆえに 私を義の道に導かれます。

たとえ 死の陰の谷を歩むとしても

私はわざわいを恐れません。

あなたが ともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖

それが私の慰めです。

私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え

頭に香油を注いでくださいます。

私の杯は あふれています。

まことに 私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

私はいつまでも 主の家に住まいます。


真の羊飼い、主イエス・キリストによって、この聖書のことばが実現しました。 

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