箴言16:1-9「主にゆだねる歩み」

 

214日に行われた教会総会で、2021年度の年間聖句と年間目標が確認されました。年間聖句は申命記318節「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」。そして年間目標は「先立って進まれる主とともに」です。先が見えない今の世の中にあって、主が私たちに先立って進んでおられることに信頼して、主とともに前進していこう、そのような思いが込められています。そして今年は毎月の第一主日の礼拝の中で、その年間目標に関連するみことばにともに聴いていきたいということで、今日はこの箴言の箇所が開かれています。先立って進まれる主とともに前進する時に大事になってくるのは、主に「ゆだねる」ということです。今日はこの箴言の箇所から、主に「ゆだねる」とはどういうことなのかについて、ともにみことばに聴いていきたいと思います。

 

「ゆだねる」とは「何もしないこと」ではない

今日は三つのポイントからお話しをしていきます。まずは第一のポイント、「『ゆだねる』とは『何もしない』ことではない」ということです。「ゆだねる」という言葉は教会でよく語られる言葉です。何か計画を立てる時、決断をする時、思い悩んでいる時、それらをすべて主にゆだねなさいと聖書は語ります。けれども私はその言葉を聴くたびに、どこか釈然としない思いを感じていました。「すべてをゆだねなさい」と言うけれども、だからと言って私たちは何もしなくていいというわけではない。「すべてをゆだねます」と言ったら、あとは毎日食べて寝て、グータラしていればいい、それは明らかに聖書のメッセージに反している。では聖書が言う「ゆだねる」とは一体何なのだろう…。どこか釈然としない、それが私の正直な思いでした。

けれどもこの箴言16章は、そんな私の釈然としない思いに一つの光を与えてくれました。この161-9節の大きなテーマとなっているのは、神さまの主権です。特にそれは4節で明らかにされています。「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた」。神さまはすべてのものをご自身の目的のために創造され、この世界のすべては神さまの主権の下にある。それは私たち人間も例外ではありません。私たちも神さまによって創造され、私たちの歩みのすべては神さまの主権の下にある。聖書はそれを明確に語っています。

けれども今日の箇所はそのような神さまの主権を強調しながらも、「人の計画」ということにもしっかりと光を当てています。特に注目したいのは3節「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」。主にゆだねる時に「あなたの計画は堅く立つ」、3節はそう語るのです。

ここから私たちは、神さまが私たちに与えてくださった「自由」をおぼえたいと思います。神さまはすべてを治めておられる主権者ですが、私たちをご自身の「ロボット」としてはお造りになりませんでした。神さまは私たちに考える自由、思いを巡らす自由、計画を立てる自由、行動を起こす自由を与えてくださったのです。そして神さまは私たちがその自由を用いて、神さまの御前に一生懸命生きること、精一杯の歩みを送っていくことを願われています。ですから「ゆだねる」ということは、神さまにすべてを丸投げして自分は何もしないということではありません。与えられた自由をもって、その都度その都度知恵を絞り、力を尽くして、神さまの御前で一生懸命生きていく。私たちはそのことをまずおぼえていきたいと思います。

 

「ゆだねる」とは「明け渡す」こと

第一のポイントとして、「ゆだねる」とは「何もしない」ことを確認しましたが、では「ゆだねる」とは一体何なのでしょうか。そこで第二のポイント「『ゆだねる』とは『明け渡す』こと」について考えていきたいと思います。まず目を向けたいのは1節です。「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る」。「人は心に計画をもつ」、これは「心の計画は人間のもの」とも訳すことができます。先ほど確認したように、神さまは計画を立てる自由を人に与えてくださっている。けれどもその計画を実現させる自由が人にはあるかと言われたら、そうではないと1節は言います。「しかし、舌への答えは主から来る」。「舌への答え」とは「結果」のことです。人は心に計画を思い描くことができる。けれどもその計画がその通りに行くかどうかは人が決めることではなく、神さまが決めることだと言うのです。

ですから3節はこのように命じるわけです。「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」。ここで「ゆだねよ」と訳されている言葉は元々「転がす」という意味をもっている言葉です。「あなたのわざを主に転がせ」。少し滑稽な感じがしますが、これは要するに、自分がもっている計画を神さまに明け渡し、結果をお任せするという意味です。

私たちは神さまから与えられた自由をもって、人生の様々な計画を練ります。教会もそうです。神さまから託された使命を果たすために、必死に知恵を絞って、力を尽くして、様々な計画を立てます。それはとても大切なことです。けれどもそこで重要になってくるのは、自分の計画に支配されないということです。一生懸命計画を立てつつも、この計画を実現させるのは自分たちではなく神さまなのだということをわきまえる。そしてそのわきまえをもって、自分たちの計画を神さまの前に「転がし」、おゆだねするのです。そして神さまにおゆだねした以上、自分たちの計画がどんな結果に終わろうとも、たとえ期待とは反対の結果が出ようとも、それこそが神さまの目には最善であることを信じ、その結果を受け入れていく。それがキリスト者の、主にゆだねる者の生き方です。

そんな生き方、あまりにも卑屈じゃないか。個々人の信念を大事にする現代社会に生きている私たちはそのように思うかもしれません。けれども、そこで私たちが思い出したいのは、神さまは万物の主権者であられるということです。私たちは自分の身の回りのごく僅かなものしか見ることができません。その非常に狭い視点の中で、私たちは最善と思われる計画を立てます。けれども神さまは違います。神さまはこの世界のすべてをご存知です。そしてその広い視点の中で、宇宙的な、永遠の視点の中で、間違いなく最善の結果をもたらしてくださるのです。その主にすべてをおゆだねする、これほど確実なことはありません。これほど心強いことはありません。ですから聖書は「あなたのわざを主にゆだねよ」と確信をもって私たちに命じているのです。

 

人の霊を見る神さま

最後に第三のポイント、「人の霊を見る神さま」について考えていきましょう。3節の後半では、「そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」とあります。主にゆだねるならば、私たちの計画は堅く立つ。では、主にゆだねるなら、どんな計画も無条件で実現するのでしょうか。もちろんそうではありません。そこで目を留めたいのは2節です。「人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる」。「人の霊の値打ちを量られる」。「霊」とは人の一番奥深くにあるものですので、「霊の値打ち」と言う時、それは私たちの「動機」(モチベーション)を意味します。主は物事の上辺ではなく、その根源にある霊、動機を見られるお方。人の目にはどんなに純粋で素晴らしい計画に思えても、神さまの目にはそうはうつらない、そのようなことが起こり得るわけです。

では、神さまが求めておられるのはどのような動機なのでしょうか。5節「心の高ぶりはすべて主に忌み嫌われる。断じて罰を免れない」。自分の力ですべてを実現させてやる、自分ならこれができる。もし私たちの計画の動機にそのような「高ぶり」があるのであれば、神さまはそれを忌み嫌われるとあります。では神さまは何を求めておられるのか。6節「恵みとまことによって、咎は赦され、主を恐れることによって、人は悪を離れる」。主が求めておられるのは、「恵み」、「まこと」、そして「主を恐れること」です。「恵み」は親切、愛、あわれみとも訳せる言葉です。そして「まこと」とは誠実さのことです。他者に対する親切、愛、あわれみ、誠実さをもち、そして主こそがすべての主権者であり、正義のお方であることをおぼえ、主への恐れをもって計画を立てていく。その時、神さまは私たちの計画を堅く立ててくださるのです。

私たちの計画の根源にある動機を吟味する、これはとても大切なことです。クリスチャンは計画を立てる時や決断をする時によく「みこころ」という言葉を使います。私たちは主の「みこころ」を求めて計画を立て、決断をしていく。けれども実際のところ、主の「みこころ」は分からないことの方が多いように思います。もちろん原則ははっきりと聖書に示されています。けれども個々の具体的な事柄になった場合、白とも黒とも言えない、グレーな問題が私たちの生活にはたくさんあると思うのです。何が正解か分からない、何が神さまの「みこころ」か分からない、それが私たちの経験する現実ではないでしょうか。

そんな時に私たちが思い出したいのは、神さまは人の霊を、動機を見るお方だということです。何か計画を立てる時、決断をする時、それが「正解」かどうかは分からなくても、その根源にある動機を問うことはできます。この計画は、この決断は果たして主への恐れに基づいているだろうか。他者に対する恵みとまことに基づいているだろうか。動機をよく吟味をした上で、神さまが私たちに与えてくださった自由を用いて計画を実行に移し、結果は神さまにおゆだねする。それこそが今日の箴言の箇所に描かれている信仰者の生き様です。

そして9節「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」。これを今日の結論として最後におぼえたいと思います。私たちの歩みを確かなものにするのは私たち自身の力ではありません。私たちの前を進んでくださる主こそが、私たちの歩みを確かなものにしてくださる。私たちを見放さず、見捨てず、約束の地へと導いてくださる。この主に信頼する歩みは、どれほど幸いなものでしょうか。

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