マルコ6:7-13「『小さなイエスさま』として」

 

大きな使命

今朝私たちが開いているのは、イエスさまの弟子たちがいよいよ派遣されるという場面です。マルコの福音書3章の前半でイエスさまに任命された弟子たちでしたが、彼らはいきなり派遣されたのではなく、しばらくイエスさまとともに行動をしながら、イエスさまの教えやみわざから学び、訓練を受けていたのでした。そしてどれくらい時間が経ってからなのかは分かりませんが、この6章になってついに、弟子たちはそれまで学び、経験したことをもとに、それぞれの場所に派遣されることとなりました。7節「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」。

「汚れた霊を制する権威」とありますが、これはこれまで私たちが何度も見てきたように、イエスさまご自身がもっておられた権威でした。汚れた霊を制する、つまり悪の力、サタンの力に打ち勝つということですが、それは神の国の到来を告げ知らせるというイエスさまの使命、ミッションの中でも中心的な働きでした。また12-13節を見ると、実際に派遣された後、弟子たちは悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒したとありますが、これはまさしくイエスさまご自身がなさっていた働きです。弟子たちの派遣というのは、「これをちょっとあの町でしてきてくれないかな」というお使いのようなものではなく、イエスさまの働きそのものを担う、ある意味「小さなイエスさま」として遣わされるということでした。

「小さなイエスさま」として派遣され、イエスさまの働きを共に担っていく。その働きは決して喜ばしいことだけではありません。11節にはこのようにあります。「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」。弟子たちは「小さなイエスさま」として派遣されるわけですから、弟子たちを受け入れないというのはすなわち、イエスさまご自身を受け入れないということを意味します。ですからもし「小さなイエスさま」である自分たちを受け入れない場所があったら、「この場所はイエス・キリストを受け入れませんでした」ということの証言、証しとして、足の裏のちりを払い落としていく。そして終わりに日にその場所は不信仰ゆえの重い裁きを受けることになるのです。このように、「小さなイエスさま」とされた弟子たちは、悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒すということだけではなく、終わりの日の裁きを告げ知らせていくという重い使命をも担うことになったのです。

「小さなイエスさま」としての派遣、これは何もこの十二弟子に限った話ではありません。以前にもお話ししましが、十二弟子の「十二」という数字は、イスラエルの十二部族を象徴しています。そしてこの新約の時代、イスラエルは新たに「教会」という名前で呼ばれるようになりましたから、私たちはこの十二弟子の物語を、私たち教会の物語として読むことができるのです。この十二弟子の派遣は、私たち教会にそのまま受け継がれている。つまり、私たち教会は、そしてキリスト者一人ひとりは、イエスさまご自身の使命と働きをともに担う「小さなイエスさま」としてそれぞれの場所に派遣されているということです。

 

求められる信仰

では、そこで求められるものはなんでしょうか。これまで何度もお話ししていますが、それは「信仰」です。8,9節「そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた」。イエスさまが持って行くことを許可したのは、杖一本、履き物、下着1枚、この三つだけでした。ここで言われている「下着」というのは今の私たちが着るような下着ではなくて、よく聖書物語の挿絵でも見るような、肌の上に直接着る丈の長い服のことです。ですので、下着は二枚着ないようにというのはつまり、着替え、あるいは重ね着するものは持って行かないようにということです。杖、履き物、下着1枚、これは当時旅をするのに必要な最低限のものでした。そこに生活の保証は全くありません。そして宿泊に関しては、行った先の人々にお願いして泊めてもらいなさいとのこと。ある意味行き当たりばったりな旅です。計画性は皆無と言ってもいいでしょう。弟子たちには頼るべきものは何もありませんでした。ただお一人、神さまだけを除いてです。イエスさまは弟子たちを派遣するに当たって、徹底的に神さまへの信仰を求めました。今自分の手には何も備えはない、計画もない、けれども神さまが必ず必要を備えていてくださっている。その確固たる信仰、信頼を神さまに対してもつ。それが「小さなイエスさま」として派遣された弟子たちに、そして私たちに求められていることです。

 

消えない不安

ここまで聞いて、どのように思われたでしょうか。「よし、それなら神さまを信頼して一歩踏み出していこう!」と意気揚々と出発できればよいのですが、なかなかそうはいかないというのが正直なところではないでしょうか。神さまがすべてを備えていてくださっている。頭では分かっているけれども、どうしても完全な信仰をもつことができない。一生懸命不安を心から追い出そうとするけれども、追い出そうとすればするほどさらに不安が増してくる。

それは何も私たちだけの問題ではなく、今日出てくる弟子たちもそうだったと思うのです。不安要素は大きく分けて二つです。一つ目は、自分たちの未熟さです。ちょっと前まで漁師だったり取税人だったりした自分たちがイエスさまと同じ働きをするなんて無理に決まっているじゃないか。読者である私たちから見てもそう思いますし、本人たちもそう思っていたと思うのです。実際、弟子たちはこの後も多くの失敗をしていきます。弟子の代表格ペテロなどは、イエスさまに「下がれサタン」とまで言われてしまう。こんな未熟な者がイエスさまの働きを共に担って本当にいいのだろうか。イエスさまに恥をかかせるだけじゃないのか。もっと成長してから声をかけてくれればいいのに…。

そして不安要素二つ目、それは備えのなさです。まだまだ未熟な自分たちなんだから、せめて備えだけはしっかりさせてくださいと弟子たちは思ったでしょう。けれどもイエスさまが持って行くのを許したのは、杖、履き物、一枚の下着だけ。宿泊場所もその日になってみないとどうなるか分からない。神さまの備えを信頼しなければいけないのは分かるけど、イエスさまはこの前の嵐の時に自分たちに向かって「まだ信仰がないですか」と言われたばかりじゃないか。その自分たちに、なぜここまでの信仰を要求するのか。まだまだ信仰の弱い自分たちの不安を和らげるためにも、もう少し備えをさせてくれればいいのに…。この弟子たちの思いは、決して私たちにとって他人事ではないように思います。

 

二人ずつの派遣

けれどもそこで私たちが目を留めたいのは、イエスさまが弟子たちに与えなかったものではなく、イエスさまが弟子たちに与えたものです。12節冒頭をもう一度お読みします。「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて」。イエスさまは弟子たちを一人ぼっちでそれぞれの場所に遣わしたのではありません。「二人ずつ遣わした」とあります。未熟な弟子たちですから、一人ではすぐに孤独と不信仰に陥るかもしれません。けれどもイエスさまはともに行く仲間を与えてくださいました。私たちにとって、それは教会です。私たちはこの世界の荒野で信仰をもって一人ぼっちで生きていけるほど強くないかもしれない。けれども、そんな私たちの弱さを知っておられる神さまは、私たちに信仰をもってともに生きる仲間、教会を与えてくださいました。一人ではしんどいこと、到底立ち向かえないと思う壁にぶち当たった時でも、一緒にいて欲しい、助けて欲しい、支えて欲しい、祈って欲しい、そのように素直に言うことのできる仲間が与えられている。私たちは一人ぼっちで頑張らなくてもいい。手を取り合い、励まし合い、支え合い、祈り合いながら、イエスさまの働きをともに担っていくことが許されている。これは私たちにとって大きな祝福ではないでしょうか。

 

一歩踏み出す

ここまで聞いても、不安を拭いきれないこともあるかもしれません。どんなに周りの支えがあっても、仲間がいても、不安は不安です。自分の意志で不安をかき消せるほど私たちは強い存在ではないからです。けれども、大事なのは不安があるかないかではありません。そもそも不安が消えるのを待っていたら、いつまで経っても旅立つことはできません。もっといいクリスチャンになったら、もっと信仰が成長したら、もっと備えができたら、そのように言っていたら、私たちはいつまで経ってもイエスさまの召しに応えることはできないでしょう。大事なのは、私たちの状態がどうであれ、イエスさまが私たちを召しておられるという事実、そしてどんな不安があろうとも、そのイエスさまの派遣の召しに応えて一歩を踏み出していくということです。12節「こうして十二人は出て行って」、弟子たちもイエスさまの召しに応えて足を踏み出していきました。そして遣わされた先で「小さなイエスさま」として働きをなしていきました。その中で弟子たちはこう思ったはずです。「あぁ、自分たちは不安に思う必要はなかった。やっぱり神さまが必要を備えていてくださった」。彼らは実際に足を踏み出すことによって、神さまに信頼するということを体験的に学んでいったのです。

ではその一発で弟子たちは神さまへの完全な信頼をもつことができるようになったかと言われれば、そうではないかもしれません。そこで最後にもう一度7節に注目したいと思います。そこでは「遣わし始めて」とありますが、これはおそらくこの派遣がこの後何度も繰り返されたということを意味しています。弟子たちは何度も何度もイエスさまによって派遣されることを通して、少しずつ少しずつ、神さまへの信頼を学んでいったのではないでしょうか。

キリスト者の人生も同じです。一つの出来事をきっかけに信仰がレベル1から一気にレベルMAXまで上がるということはなかなかありません。けれどもイエスさまの召しに応え続けていく中で、不安はありながらも、「あの時神さまは必要な備えを与えてくださったから、今回も大丈夫じゃないか」、その小さな信仰をもって一歩踏み出していく。そしてその中で自分の想像を遥かに超える神さまの豊かな守りと導きを経験していく。その繰り返しの中で、私たちは螺旋階段を上るように、信仰の成長を経験していくのです。「小さなイエスさま」として、神さまは私たちを今どこに遣わそうとされているでしょうか。互いに励まし合いながら、その召しに応え続ける歩み、信仰の旅路を送っていきたいと願います。

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