マルコ6:14-29「証しに生きる」

 

今日の箇所は、このマルコの福音書の中でも少し特別な箇所になっています。なぜ特別かと言いますと、この箇所はマルコの福音書の中でイエスさまが直接登場しない唯一の箇所になっているからです。しかも、これまでの流れを切るように唐突にこのバプテスマのヨハネの死のエピソードが記されているというのも、この箇所を印象的なものにしている一つの要因かと思います。先週読んだ箇所は、弟子たちが「小さなイエスさま」としてそれぞれの場所に派遣されるというところでした。その宣教によってイエスさまの名前はさらに知れ渡って、ついにヘロデ王の耳にまで入るようになったというのが今日の箇所ですけれども、そこで急に、実はバプテスマのヨハネはすでに殺されていたんですよということで、過去の回想シーンが始まっていく。マルコはある意味強引にこのエピソードをこの場面に挿入してきたように思えます。

 

無惨な死

そして書かれているのはなんとも無惨でひどい話です。17-18節「実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。これは、ヨハネがヘロデに、『あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない』と言い続けたからである」。きっかけは、ヘロデ王の再婚問題でした。ここで言われているヘロデ王というのは、あの有名なヘロデ大王の第四の妻の息子で、大王亡き後、領主としてガリラヤ地方とペレヤという地方を治めていました。正式な名前はヘロデ・アンティパスです。彼には元々妻がいたのですが、彼の異母兄弟であるピリポの妻ヘロディアと恋に落ちたため、元の妻と離婚し、ヘロディアと再婚をしたという出来事がありました。けれども兄弟の妻と結婚をするというのは律法に反することでしたから、バプテスマのヨハネはすぐさま声を挙げ、その結婚を公然と批判したようです。するとそれが気に入らないヘロデとヘロディアはヨハネを捕らえ、牢につないだ。それが今日の箇所の背景にあった出来事です。

けれども19-20節を見ると、ヘロデ自身はヨハネの教えに喜んで耳を傾け、彼を保護していたとあります。ですからそのままであったらヨハネも安全だったわけですが、妻ヘロディアはヨハネを殺す機会をずっと伺っていました。そしてある日、良い機会が訪れます。お偉いさん方が招かれた祝宴の席で、おそらく酔って上機嫌になったヘロデは、踊り子の娘に「何でも欲しいものをあげよう」と言い出します。23節では「国の半分でも与えよう」とありますが、ヘロデは正確には王ではなく、ローマから支配を委託されている領主に過ぎませんでしたから、本来であれば国を与える権威などありません。ですからおそらく彼はお酒の席での冗談として言ったのかもしれません。しかしヘロディアはその機会を逃しませんでした。すかさず娘をそそのかし、バプテスマのヨハネの首を願ったのです。ヘロデはヨハネを気に入っていたので心を痛めましたが、大勢の人を前に誓った手前、それを撤回はできないということで、ヨハネの首を刎ねました。ヘロデの冗談によって引き起こされた、あまりにも無惨な死です。よく言えば殉教ですが、それにしてもあまりにも惨めすぎる。無駄死、犬死させられた、そのように言うこともできるかもしれません。

 

証しのために来た

そこで改めて考えたいのは、なぜマルコはこの無惨なヨハネの死のエピソードを記したのかということです。弟子たちの派遣が始まって、さあこれからだという時に、なぜこんなにも悲しいエピソードを語り始めるのか。そこで思い出したいのは、ヨハネがどのような存在だったのかということです。「今週のみことば」にもあげましたが、ヨハネの福音書16-7節にはこうあります。「神から使わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」。「この人は証しのために来た」。「証し」、それこそがヨハネに与えられた使命でした。では彼はどのようにしてその使命を全うしたか。マルコ1章で見たように、彼は悔い改めを宣べ伝え、彼の後にメシアが来ることを証ししました。彼は言葉をもってメシアの到来を証しした。けれどもそれだけではありませんでした。ヨハネはその死に様をも通して、イエスさまを証ししたのです。正しく立派な人が、あまりにも理不尽な理由で無惨にも殺される。このヨハネの死は、イエスさまの十字架を指し示す死でした。メシアは人々から罵られ、痛めつけられ、苦しみの内に死んでいく。ヨハネは自身の死をもって、メシアの受難を証ししたのです。

「この人は証しのために来た」。人生の全てをもってイエスさまを証ししたヨハネ。「証しに生きる」とはどういうことなのか、彼は非常に重い問いを私たちに投げかけています。「証しに生きる」。イエス・キリストを救い主として信じる私たちは、この人生をもってイエスさまを証ししていきたいと願っています。けれどもこのヨハネのように、理不尽で惨めな死を遂げてでもイエスさまを証しするということについて、私たちは考えたことがあるでしょうか。これは殉教の問題とも関わってきます。殉教とは、信仰を理由にいのちを落とすことです。「殉教者」という言葉、ギリシャ語では「マルテュス」と言いますが、この言葉の元々の意味は「証しする人」、「証人」です。キリストを証する者、キリストの証人、その究極が殉教であるということです。もちろん聖書は私たちに殉教しなさいと命じているわけではありません。神さまは私たちに、与えられたいのちを喜んで生きてほしいと願っておられます。けれどもイエスさまは同時にこのようにもおっしゃっています。マルコの福音書834節「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。神さまを信じたら全ての問題が解決、全てがハッピー、決してそうではあリません。イエスさまに従う歩みというのは、十字架を負う歩みでもあると聖書は語るのです。その十字架というのは人それぞれですけれども、もし自分の十字架が殉教の死であるなら、自分はそれを負うことができるだろうか。弟子たちの中には殉教の死を遂げた者が多くいました。そして今でも迫害に苦しみ、殉教の死を遂げるクリスチャンは世界中に大勢います。自分には果たしてその覚悟はあるだろうか。重いテーマです。軽々しく口にはできません。私も大きな恐れをもって今語っています。けれどもクリスチャンとして、キリストの証人、証しに生きる者として、やはり私たちはこの問題を考える必要がある。「証しに生きる」とはどういうことか、ヨハネは私たちに重い問いを投げかけています。

 

確かな希望

しかし、それでも私たちはやはり思ってしまうのではないでしょうか。神さま、なぜヨハネのように正しくて立派な人がこんなにも無惨な死に方をしなければいけないのですが。ヘロデはもちろん理不尽だけれども、神さま、あなたも理不尽じゃないですか。ヨハネがかわいそうだとは思わないんですか。私はそう思いました。証しに生きた人の人生がこんな惨めに終わっていいのか。みなさんはどうでしょうか。

けれどもそこで最後に私たちが目を向けたいのは、今日の箇所に隠されている一筋の希望の光です。ここには希望の光が隠されている。29節「このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった」。福音書に記されているヨハネの物語はここで終わります。しかし、弟子がやって来て遺体を引き取り、墓に納めた、ここで終わらない物語を私たちは知っているのではないでしょうか。そうです、イエスさまの復活です。イエスさまはヨハネと同じように理不尽で無惨な死を遂げました。しかし物語はそこで終わらなかった。墓に葬られた後、三日目によみがえったのです。ヨハネはイエスさまを証しする先駆者としてその人生を歩みました。しかし今度はイエスさまが先駆者として、初穂として、復活への道を切り開いてくださったのです。ですから、14節、16節に記されている、「ヨハネがよみがえったのではないか」という人々の憶測、これはこの時点では誤った憶測でした。しかしそれは憶測に終わらなかった。やがてイエスさまが再びこの世界に来られる時、ヨハネがよみがえったという憶測は現実のものになるのです。マルコはこの14節、16節ですでに、その復活の希望を暗示している。私たちはここに一筋の希望の光を見ることができるのです。

キリストの証人として、証しに生きる者としてこの地上を歩む時、そこには多くの苦難があるかもしれません。とんでもなく重い十字架を背負わなければいけない時があるかもしれません。地上での歩みだけを見たら、理不尽としか思えないかもしれない。けれども、私たちには復活の希望があるということをおぼえたいと思います。イエスさまが再び来られる日、私たちは復活させられ、神さまの前に立たされます。そして神さまはこう声をかけてくださるのです。「あなたはわたしのためにどんな苦難も耐え忍び、キリストの証人として、証しに生きる者として歩んでくれた。よくやった。忠実なしもべだ」。そのように声をかけながら、義の栄冠を私たちにかぶせてくださる。それこそが、証しに生きるものにとっての希望です。聖書が語る真の希望です。

その希望を理解するとき、このヨハネの無惨な死のエピソードは全く違ったものに見えてきます。義の栄冠を目指してひたすらに走った証し人ヨハネの姿が見えてきます。このヨハネの姿に励まされつつ、私たちも証しに生きる歩みを送っていきたいと願います。この希望は決して失望に終わることはありません。

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