マルコ5:21-43「信仰と救い」

 

先ほど、マルコ521-43節までを一気に読みました。この箇所には二つの出来事が記されています。一つは、会堂司ヤイロとその娘の出来事。そしてその出来事のちょうど真ん中に記されているのが、二つ目の長血の女の人の出来事です。学者たちはこれを「サンドイッチ構造」と呼んでいるのですが、これはマルコが好んで用いた語り方だったようです。

今回、この箇所をどのように語るのかについては悩みました。この二つの出来事はそれぞれに重要なメッセージをもっているので、サンドイッチを分解して語ろうかとも考えました。けれども、もちろんサンドイッチは分解しても十分においしいわけですが、マルコがそれをあえてサンドイッチとして記しているということに今回は注目して、サンドイッチを丸ごと食べていくということをしたいと思います。

 

共通したテーマ

そこでまず考えたいのは、なぜこの二つの出来事が一緒に描かれているのかということです。もちろん実際そのように起こったからということで済ませてもいいのですが、ここにはやはりいくつか共通したテーマが見られると思うのです。一つは「汚れ」の問題です。長血の女の人に関して言えば、このような女性特有の出血の病というのは、当日のイスラエルでは「汚れ」とされていました。そしてヤイロの娘ですが、当時は死体も「汚れ」とされていましたから、ここでは長血の女の人とヤイロの娘、それぞれの「汚れ」にイエスさまが触れ、あるいは触れられ、その「汚れ」が癒されたということになるわけです。

二つ目の共通点は、「12年」という年月です。長血の女の人は12年の間病をわずらっていたとあり、そしてヤイロの娘は当時12歳だったと言われています。それぞれにとってこの12年間はどのような意味をもっていたのか、想像が膨らみます。長血の女の人にとっては、医者にたらい回しにされ、お金も使い果たす、ただひたすら辛く苦しい12年間だったでしょう。一方のヤイロの娘はどうだったか。聖書は多くを語っていませんが、父親のヤイロにとって、12歳の娘のいのちの重みというのは大きなものだったことでしょう。その重いいのちが今絶たれようとしている。長血の女の人とヤイロの娘、一見接点のないように見える二人の12年間という月日は、救い主イエスさまとの出会いによって、大きく変えられていくことになります。

このように、この箇所は非常に豊かなメッセージをもっているのですが、その中でも今日私たちが目を留めていきたいのは、この二つの出来事に共通している「信仰」というテーマです。長血の女の人に対しては「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語り、ヤイロに対しては「恐れないで、ただ信じていなさい」と語るイエスさま。この箇所は、イエスさまが語るこの「信仰」についてどのように語っているのか。その点に注目しながら、御言葉を味わっていきたいと思います。

 

立派な信仰?

さて、「信仰」というテーマで特に印象的なのは、「あなたの信仰があなたを救ったのです」というイエスさまのことばです。「あなたの信仰があなたを救った」、イエスさまがそこまで言うなら、この長血の女の人はさぞかし立派な信仰をもっていたに違いないと思いきや、実際はその真逆とも思えるような女性の姿がここには描かれています。彼女はイエスさまの衣にでも触れれば自分の病は癒やされると考えたようですが、これはある意味迷信的な考えです。中世の時代には聖人が着ていた服に触れば病が治るという迷信が流行っていたようですが、それと同じようなものだと言えるかもしれません。しかも正面から堂々と「イエスさま、私の病を癒してください!」と言うのではなく、うしろからそっと近づいて、気づかれないように衣に触り、「だれが触ったのか」とイエスさまが問いただしても、すぐに名乗り出ることはできない。もちろん、宗教的に穢れている自分がイエスさまに触ってイエスさまを汚してしまったと周りに知られたら大変、ということもありましたが、それにしても弱く、小さな信仰です。決して模範的な信仰と言うことはできません。

では会堂司のヤイロはどうでしょうか。彼は長血の女と違い、社会的身分もしっかりとしていたということもあったのでしょうか、堂々とイエスさまの前に進み出てひれ伏します。一見素晴らしい信仰者であるかのように思える。しかし道の途中で娘が亡くなったという知らせを聞いた彼は、恐れを抱きました。イエスさまは彼に対して「恐れないで、ただ信じていなさい」と声をかけていますが、これは裏を返せば、彼は恐れ、その信仰が大きく揺らいでいたということを意味します。娘の死を聞き、彼はイエスさまへの信仰を失いそうになっていた。彼の信仰もまた、脆く、揺らぎやすいものだったのです。

このように、長血の女性と会堂司ヤイロは決して褒められた信仰をもっていたわけではありません。けれどある一点において、二人は弱くとも確かに存在している信仰の光を示していました。23節「娘が救われて生きられるように」、そして28節「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」。片方は弱く迷信的、もう一方は脆く揺らぎやすい、けれども確かなのは、二人とも「イエスというお方にこそ救いはある」と信じていたということです。そこには確かな信仰の光があった。そしてその不完全な信仰を通して、イエスさまの救いの御業が働いたのです。

 

信仰による救い

「信仰による救い」。教会でよく聞くことばです。私たちは行いではなく信仰によって救われる。「信仰義認」とも言いますが、宗教改革に始まる私たちプロテスタント教会の生命線とも言っていいような教理です。けれども注意しなければならないのは、この教理は決して、信仰があれば私たちは救いをゲットできるということを言っているのではないということです。私たちが信仰を差し出したら、神さまが代わりに救いをくださる、そういった物々交換のことを言っているのではありません。もしそうであったとしたら、で救いをゲットできる人はこの地球上に何人いるでしょうか。たしかに信仰の強い弱いはあるでしょう。けれども神さまからいただく救いに値するだけの信仰をもっている人は、果たしてどれほどいるでしょうか。いないと言わざるを得ないと思います。

聖書が語る救いとは、決して信仰と物々交換でゲットできるものではありません。今日の箇所でもそれは明らかです。長血の女性とヤイロは救いに値するだけの立派な信仰を示していないからです。であれば、今日の箇所は信仰と救いについて何を語っているのか。それは、信仰とは「神さまの救いの力を受け取る器」であるということです。信仰はあくまでも器であって、その器に注がれる神さまの力によって私たちは救われるのです。今日の箇所の二人の信仰、器は、片や弱く迷信的、片や脆く揺らぎやすいものでした。けれども憐れみ深いイエスさまは、その弱く脆い不完全な信仰に目を留めてくださり、ご自身の救いの力を、神さまの救いの力を注いでくださったのです。

それは群衆と長血の女性を比較するとさらによく分かります。「群衆がイエスさまに押し迫っていた」とありますから、この長血の女性以外にもイエスさまに触れた人はたくさんいたはずです。けれども救いの力がもたらされたのは、長血の女性一人でした。それは、群衆にはイエスさまの救いの力を受け取る器、「信仰」がなかったからです。その中でイエスさまは、自分に触れた弱く小さな信仰を感じ取り、救いの御業を現してくださったのです。

 

信仰を引き上げ、励ましてくださるイエスさま

そしてそれだけではありません。イエスさまは私たちの信仰を引き上げ、信仰の旅路にある私たちを励ましてくださるお方です。もし長血の女性が癒やされた後、そのまますぐ立ち去ってしまったのであれば、彼女の信仰はおそらく弱いままであったと思うのです。しかしイエスさまは彼女をそのままにせず、あえて探し出し、その弱く迷信的な信仰を「あなたの信仰」と認めました。これは決して、女性の弱い信仰に片目をつむって、「うーん、まあいいでしょう」とギリギリの合格点を出されたということではありません。イエスさまはこの女性を自分と正面から向きあわせ、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言することによって、この女性の弱い信仰を引き上げてくださったのです。「あなたはもう弱気にならなくていい。あなたは私が認めた一人の信仰者としてこれから生きていくんだ。だから平安の内に、健やかに過ごしなさい」。この女性にとって、このイエスさまのことばはどれほど大きな励ましとなったことでしょうか。

そしてそれはヤイロも同じです。「恐れないで、ただ信じていなさい」、これは脆く揺らぎやすいヤイロの信仰を責めていることばではありません。恐れの中にいるヤイロを、信仰がぐらついているヤイロを励ますイエスさまの愛に満ちたことばです。「恐れないで、ただ信じていなさい。信仰をもって、神さまの救いの力を受け取りなさい」。家路を急ぐヤイロの傍らを歩きながら、イエスさまはそのような励ましのことばをかけてくださったのです。

このイエスさまのお姿に私たちは目を留めていきたいと願います。そしてどんな状況にあっても、「このお方にこそ救いはある」と信じ、信仰を通して神さまの救いの力を日々受け取っていきたいと願います。弱い信仰かもしれません。脆く揺らぎやすい信仰かもしれません。しかしイエスさまはご自身を求める信仰に必ず目を留め、救いの御業をなしてくださいます。

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