マルコ5:1-20「罪人から宣教者へ」

 

「聴くドラマ聖書」というものをみなさんご存知でしょうか。これは2019年にG&M文化財団というところから出されたスマートフォンアプリなのですが、「聴くドラマ聖書」という名前の通り、新改訳2017の聖書の朗読をドラマ仕立てで聴くことができます。演じているのも一流の声優さんたちでして、BGMや効果音もついているので、聖書の物語を臨場感たっぷりに聴くことができます。しかもなんと、このアプリは無料で提供されています。最近ではパソコンでも聴けるようになりました。興味のある方はぜひ聴いてみてください。

なぜこんな話をしているかと言いますと、もちろん宣伝したいというのもありますが、その「聴くドラマ聖書」が今回の説教の準備でとても役に立ったからです。もちろん今日のレギオンの話は私もこれまで何度も読んだことがありましたが、今回改めて「聴くドラマ聖書」でこの箇所の朗読を聴く中で、この箇所がいかに恐ろしい光景を描いているのかということに気づきました。舞台は墓場ですから、「聴くドラマ聖書」ではまず怪しげなBGMが流れ始めます。そして獣の叫び声のような恐ろしい音が流れ始める。まるでお化け屋敷にいるかのような気分になりました。

 

罪人の悲惨さ

けれどもことはそれ以上に深刻でした。そこには実体のないお化けではなく、実際に悪霊に憑かれた一人の男がいたからです。今日の3-5節ではその男の悲惨な様子が描かれています。墓場に住みついていたとありますが、おそらく彼は元々いた町や村から追い出されたのでしょう。けれども誰も鎖や足枷をもってしても彼を抑えることができない。誰の手にも負えない。そして自分自身を含め、誰彼構わず人を傷つけてしまう。もはや獣のような存在と言ってもいいでしょう。悪霊に憑かれた男は、そのような悲惨な状態の中にありました。

この物語を読むとき、私たちはどこに自分の視点を置くでしょうか。いくらなんでも自分はここまでひどくはないと考え、第三者的な視点からこの物語を読むでしょうか。確かに、私たちは誰も墓場には住んでいませんし、鎖を引きちぎることはおろか、鎖で繋がれることもないでしょう。この男と比べると、誰もがまともな人間であるように思える。それは確かです。けれどもこの男の姿について思いを巡らせば巡らせるほど、この物語は罪に支配された人間の恐ろしさを描き出していることが分かってきます。抑えきれない暴力と破壊の衝動。溢れてくる怒り。実際に力の行使に出ることはなくとも、言葉や行動で人々を傷つけてしまう。しかしその中で誰よりも傷んでいるのは自分自身です。声にならない苦しみの雄叫びをあげ、ひたすら自分を傷つけていく。人間の悲惨な姿です。

しかもより深刻なのは、自分で自分をコントロールできないということです。今日の2節や6節を見ると、この男は遠くからイエスさまを見つけ、すぐに走って迎えに行ったとあります。なぜそうしたのか理由は書いてありませんが、おそらくこの男は、自分に助けが、救いが必要なことを分かっていたと思うのです。だからイエスさまのもとに近づいた。けれども、彼の内にいた悪霊は素直に救いを求めさせません。7節で男はイエスさまに対して、「私とあなたに何の関係があるのですか」と言います。これは悪霊が彼に言わせた言葉でしょう。お前は神なしで、救いなしでやっていける。このままでいいんだ。だからイエスなんかと関わるんじゃない。救いが必要だと分かっていながら、それを素直に神さまに求めさせない。私たちのコントロールを奪っていく。それが悪霊の、罪の一番の恐ろしさです。

パウロもそのような罪の恐ろしさを語っています。共に開きたいと思います。ローマ人への手紙718-20節です(新308)。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です」。自分はこんな生き方をしたいんじゃない。家族のことも、周りの人のことも傷つけたくない。もっと優しく、愛のある生き方をしたい。素直に周りに、神さまに助けを求めたい。けれども、そうはできない自分。そんな自分に嫌気がさし、自分で自分を傷つけ始める。自分のことさえ愛せなくなる。それが罪に支配されている人間の悲惨です。聖書は私たちに、この物語を自分自身の物語として読むように迫ってきます。

 

イエスさまの愛と憐れみ

そんな罪人に一体誰が気を留めるでしょうか。この男は人々から見放されました。家族からもです。そして住んでいた町を追われ、汚れの象徴である墓場に追いやられる始末。もはや人間の手には負えません。誰もこの男に近づこうとはしなかったのです。

しかし、イエスさまは違いました。先週読みましたけれども、イエスさまは「向こう岸へ渡ろう」と、自らの意志で湖を渡り、このゲラサ人の地にやってこられました。そして今日の521節を見ると、イエスさまはこの出来事が終わってすぐにまた湖を渡って帰られたとあります。これは何を意味するか。イエスさまはこの一人の傷ついた罪人のためにわざわざ湖を渡って来てくださった。ついでではありません。この人を救いたいと願って、異邦のゲラサ人の地へとやって来られたのです。ここに私たちは、たった一人の憐れな罪人を決して見捨てないイエスさまの愛と憐れみを見ることができます。私たちは「その他大勢」の中の一人としてイエスさまに見出されたのではありません。イエスさまは、罪の支配の中で人々から見放され、傷み苦しんでいる私たち一人ひとりに目を留めてくださる。ザルで一気にすくうようにではなく、私たち一人ひとりに手を差し伸べ、罪からの救いをもたらしてくださる。私たちの救い主はそのようなお方です。

そしてイエスさまはこの男の内に住みついていたレギオンという名の悪霊を追い出しました。レギオンというのはローマの軍団の呼び名でして、その数は6000人ほどだったと言われています。この男の中にはそれほどの数の悪霊が住みついていた。そしてその悪霊は豚の中に送られます。すると、二千匹ほどの豚が一斉に崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んでしまった。非常に恐ろしい光景です。なぜ豚がとばっちりを受けないといけないのか、豚の飼い主のことをイエスさまは考えなかったのか、色々と疑問は湧いてきます。けれどもここで重要なのは、この男の中に住みついていた悪霊はそれほど恐ろしい存在だったということです。この男もその光景を見てびっくりしたはずです。自分の中にはこんなに恐ろしい存在がいたのかと。救われて初めて、自分を支配していた罪がどれほど恐ろしく深刻なものだったのかに気づく。それは私たちにも起こり得ることではないでしょうか。

そして、その結果どうなったか。17節「すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」。周囲の人々はイエスさまを拒絶しました。厄介ごとは持ち込まないでくれ。俺たちの平穏な日常を乱さないでくれ。このような人々の反応はまさしく、「私とあなたになんの関係があるのですか」というレギオンの言葉と同じです。私たちは今のままで十分やっていける。神の助けなんていらない。救いなんて必要ない。自らが罪人であることを悟らない人間の悲惨さがここにあります。

けれども、悪霊から解放された男は違いました。15節を見ると、この男は服を着て、正気に返って座っていたとあります。獣のような存在から、真っ当な一人の人間へと回復された一人の人の姿がここにあります。悪霊、罪の支配から解き放たれ、自由になった一人の人の姿です。そして自由にされた彼は、イエスさまについていきたいと願いました。悪霊の支配から解き放たれた彼は、自らの意志で、神の支配の下で生きていきたいと願うようになったのです。なぜか。それは、悪霊の支配と違い、神の支配には自由があるからです。人を真の人間として生かす自由があるからです。彼はそのようにして、神の支配の下で自由に生きる歩みへと進んでいったのでした。

 

主を証しする者へ

しかし19節を見ると、お供をしたいという男の願いをイエスさまはお許しにならなかったとあります。そうではなく、あなたの家、あなたの家族のところに帰り、そこで主を証ししなさいと命じます。このイエスさまの命令は、男にとって辛いものだったかもしれません。彼はイエスさまの下で人生をやり直したいと考えていました。これまでの悲惨な過去は捨てて、新しい歩みをイエスさまの下で始めたいと願った。しかしイエスさまは、自分を見捨てた家族のもとに帰りなさいと言う。そこがあなたにとっての証しの場、宣教の場なのだと言うのです。彼にとっては茨の道だったに違いありません。自分の辛い過去と向き合わなければいけないこともたくさんあったでしょう。それでも彼はイエスさまに従い、自分の家に帰って行きました。彼の内には、過去と向き合う辛さに勝る救いの喜びがあったからです。人々は、家族は自分を見捨てた。けれどもイエスさまはそんなどうしようもない自分に目を留め、救い出してくださった。そして主の救いの御業を証しするという新しい生きがいを、生きる目的を与えてくださった。人々から見捨てられ、獣のように、生きる目的なく過ごしてきた彼にとって、それは大きな喜びだったに違いありません。そして20節「それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた」。この「言い広め始めた」という言葉は、「宣教を始めた」と訳すこともできる言葉です。罪の支配の下に生きていた一人の悲惨な罪人が、主の救いの御業を証しする宣教者へと変えられたのです。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。罪の支配から神の支配に移された人は、そこで自由を味わうだけに終わりません。その自由をもって、救いの喜びをもって、今度は自ら主の救いの御業を証しする者になっていくのです。この奇跡の物語を、私たちは自分自身の物語としていきたいと願います。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」。救いの喜びをもって、主の召しに応えていく歩みを送っていきましょう。

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