マルコ4:35-41「まことの信仰」

 

みなさんは「イエスさま」というとどのような印象をもっているでしょうか。憐み深いお方、お優しいお方、謙虚なお方、力強いお方。聖書は様々なイエスさまのお姿を描き出しています。今日の箇所はどうでしょうか。恐らく今日の箇所を読んで私たちがまず抱くのは、「イエスさまって厳しい」、そのような印象ではないでしょうか。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」。ある翻訳は「まだ信じないのか」と訳しています。これまで悪霊やパリサイ人たちには厳しかったイエスさまですが、弟子たちには基本的に優しい態度で接しておられたように思います。けれども福音書も中盤に入り、イエスさまも弟子たちの訓練の必要性を感じたのでしょうか、ここからは弟子たちに対するイエスさまの厳しい一面も見えてくるようになります。

 

まことの信仰

そこで一貫して問われているのは、「まことの信仰」とは何かということです。「まことの信仰」とは何か。「信仰とはなんですか」と問われたら、みなさんはなんと答えられるでしょうか。16世紀のドイツで作られ、今でも世界中の教会で用いられている「ハイデルベルク信仰問答」という教理問答では、「信仰」がこのように説明されています。

 

21:まことの信仰とはなんですか。

答:それは、神が御言葉において私たちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。…

 

ハイデルベルク信仰問答はここで信仰には二つの要素があると説明しています。その二つとは、「確かな認識」と「心からの信頼」です。「確かな認識」、御言葉を通してイエスさまが神の子キリストであることを知ること。そして「心からの信頼」、その神の子イエス・キリストに心から信頼すること。このどちらかだけではありません。イエスさまが救い主、神さまであることを理性で認識しつつ、心からの信頼をもってイエスさまに従っていく。それが「まことの信仰」であるとハイデルベルク信仰問答は教えているのです。

では弟子たちはどうだったのでしょうか。弟子たちに「確かな認識」はあったか。41節の「いったいこの方はどなたなのだろうか」という言葉からも、弟子たちはイエスさまを神の子キリストと認識していなかったことが分かります。では「心からの信頼」はどうでしょうか。これもなかったと言えるでしょう。もし弟子たちが「イエスさま、助けてください」と助けを求めていたら、少し話は違ったかもしれません。けれども弟子たちが口にしたのは、「私たちが死んでも、かまわないのですか」という怒りの言葉でした。そこに信頼は見られません。弟子たちのうちには、自分たちの船の中には全能なる神の子キリストがいるということの認識、そしてそこからくる信頼は全くと言っていいほどなかったと言えるでしょう。だからイエスさまは「まだ信仰がないのですか」と弟子たちを厳しく戒めたのです。

 

弟子たちの思い

けれども、弟子の気持ちになって考えてみると、彼らがなぜそのように振舞ったのかも分かるような気がします。35節でイエスさまが「向こう岸へ渡ろう」と仰っていることからも分かるように、舟を出そうと提案したのはイエスさまでした。弟子たちの中には熟練の漁師もいましたから、天気の様子を見て、「いや、今は舟を出さない方がいい」と反対した人もいたかもしれません。けれども彼らは最終的に「向こう岸へ渡ろう」というイエスさまの声に従い、舟を出しました。しかしその結果どうなったか。舟が沈みそうになるほどの大嵐です。そんな中、舟を出そうと提案した張本人はどうしているか。船尾で枕をして眠っていたとあります。弟子たちからすれば、それは文句を言いたくなるはずです。「イエスさま、私たちはあなたに従って舟を出したんです。それなのになぜあなたは一生懸命水をかき出している私たちを放って、一人で寝ておられるのですか。そんなのおかしくないですか」。

このような弟子たちの怒りは、私たちにとっても他人事ではないように思います。自分はこちらに進みたくはなかったけど、イエスさまの御声に聞き従って、御言葉に聞き従ってこちらの道を選んだ。けれどもいざ道を進み始めたら、災難ばかり。命を落としかねない大嵐に出会う。けれども、イエスさまからの助けは何もない。イエスさまは眠っておられるように感じる。「イエスさま、あなたに従ったのに、なぜですか。なぜあなたは何もしてくださらないのですか」。そのような怒りの声は、いつの時代もこの世界に満ちているように思います。

 

まことの信仰者の姿

そのように考えるとき、イエスさまは弟子たちにどうすることを求めておられたのだろうと思います。弟子たちはここでどのように振る舞うべきだったのか。ある人は「弟子たちもイエスさまと一緒に寝るべきだったのだ」と言います。イエスさまは神さまに信頼していたからこそ、嵐の中でも安心して眠ることができた。だから弟子たちも同じように、共におられるイエスさまに信頼して、全てを委ねて、一緒に寝るべきだったのだと。なるほどなとは思います。ある意味それは究極の信仰かもしれない。けれども、イエスさまは本当にそれを求めておられたのでしょうか。そうではないと思うのです。なぜか、それは、現にかき出すべき水はあるからです。かき出すべき水、弟子たちがなすべきことは今はっきりと目の前にある。そこで弟子たちに求められたのは、イエスさまがいれば大丈夫だという信仰をもって、水をかき出し続けるということではないでしょうか。それがまことの信仰者の姿だと思うのです。まことの信仰者は、イエスさまが全部してくださるから大丈夫だとあぐらをかき、委ねるという名目で全ての責任を投げ出す、そのようなことはしません。そうではなく、イエスさまがいれば大丈夫だと信頼をしながら、力を尽くして水をかき出し続ける、一生懸命神さまから与えられたいのちを生き切る。時には息が上がることがあるかもしれません。腕が疲れてくることもあるでしょう。死ぬほどの思いをすることもあるかもしれない。けれども、この舟にはこの天地を創造された全能なる神の子イエス・キリストがおられるという「確かな認識」と「心からの信頼」をもつとき、私たちはどんな嵐も、逆境も乗り越えることができる。それこそが聖書の教えている「まことの信仰者」の姿です。

 

イエスさまの憐み

「まことの信仰者」、そのように迫られると自信を無くしてしまうことがあるかもしれません。「まだ信仰がないのですか」と自分はイエスさまに叱られているのではないか。そんなイエスさまに自分はついていけるのだろうか。それならいっそ、初めからイエスさまの声に聞き従わないで、舟に乗り込まなければよかったんじゃないか。そのように思うことあるかもしれません。

けれどもそこで私たちは、改めてイエスさまのお姿に目を留めていきたいと思います。確かに今日の箇所のイエスさまは厳しい。しかし、イエスさまは信仰のない弟子たちに失望し、弟子たちを見捨てて舟を降りられたでしょうか。そうではありません。イエスさまは弟子たちを決して見捨てませんでした。それどころから、弟子たちの怒りの声に怒りをもって返すのではなく、「黙れ、静まれ」と、神としての権威をもって嵐を鎮められました。そしてその後も弟子たちを見捨てることなく、同じ舟に乗り続けてくださったのです。ここに私たちは、イエスさまの憐れみ深さを見ることができます。イエスさまは確かに厳しい一面をもっておられる。けれどもそれは私たちを苦しめるためではありません。そうではなく、私たちの信仰が成長することを願って、キリストに似た者となっていくことを願って、私たちを教育し、導いてくださっているのです。そこには愛があります。私たちを決して見捨てないという憐みがあります。そのことを私たちは最後におぼえたいと思うのです。自分の弱さを認め、悔い改めつつ、それでも私たちを見捨てないイエスさまの憐みに感謝し、まことの信仰をもって生きていく。そしてイエスさまの救いの御業を前に、「いったいこの方はどなたなのだろうか」ではなく、「まことにあなたは神の子キリストです」と、まことの信仰を告白し続けていく。そのような信仰の成長の旅路を、聖霊に導かれつつ、今週も歩んでいきたいと願います。

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