マルコ4:26-34「神の国の力強さ」

 

昨年のアドベントからしばらく、ルカの福音書のクリスマス物語、そして年末感謝礼拝の詩篇92篇と御言葉に聴いてきましたが、今日からまたマルコの福音書の連続講解説教に戻っていきます。前回が1115日でしたので、約1ヶ月半空いたことになりますが、今年も私たちはマルコの福音書が語る神の国の福音、喜びの知らせに共に耳を傾けていきたいと思います。

今朝私たちが開いている箇所には二つのたとえ話が登場します。その二つに共通しているテーマは「神の国」です。26節「神の国はこのようなものです」、そして30節「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか」。イエスさまはそのようにたとえを用いて、神の国とはどのようなものか、神の国の性質について語りました。イエスさまのたとえ話というと、何か分かるようで分からない、そのような印象をもたれている方も多いと思いますが、今日の箇所に出てくるたとえはその中では比較的分かりやすいものではないかと思います。

 

第一のたとえ

それでは、それぞれの内容を見ていきましょう。まず一つ目のたとえですが、ここで語られているのは、神の国は人間の力によってではなく、神の国そのものの力によって成長するということです。種は人間が何か細工をして初めて芽を出すものではありません。種は蒔かれさえすれば、あとは勝手に成長し、実を結んでいく。「実際はそんな簡単なものじゃない」と反論したい方もいらっしゃるかもしれませんが、人間が手を加えるのはあくまでも生長を助けるためです。芽を出し、生長し、花を咲かせ、実をならせるというのは、あくまでも種自身の力によって起こることです。私は植物をまともに育てた経験はあまりないのですが、このたとえを読みながら、教会の草刈りのことを思い出しました。昨年は5月に、年の1回目の草刈りを森川兄がしてくださいました。私はそのお手伝いをしたのですが、森川さんがあまりにも綺麗に草を刈られていたので、「これだけ刈ったらもう今年は草刈りをしなくていいんじゃないか」と思ったんですね。ただ森川兄に聞くと、いつも年に3回はされているとのこと。その時は正直、「そんなにする必要本当にあるんですか」と思ったのですが、1ヶ月半ほど経ってふと見てみると、もうすでに草がボーボーに生えている。雑草はすごい力を秘めているなと思いました。

神の国を雑草にたとえるのは少し気が引けますが、いずれにせよイエスさまがここで教えているのはそういうことです。神の国は人間の力によってではなく、神の国そのものの力によって成長し、拡大していく。神の国にはそれだけの力が秘められているということです。雑草は冬は育ちませんが、神の国はどんな厳しい環境にあろうと、どんな妨害に遭おうとも、それに決して負けることなく、確実に、力強く成長し、やがて多くの実を結んでいくのです。

 

第二のたとえ

また、それに続くのが30節以降の二つ目のたとえです。ここでは神の国がからし種にたとえられています。このからし種は油や調味料に使われたもので、種としては一番小さいものとして当時知られていたようです。私も一度実物を見たことがありますが、本当にゴマよりも小さい種なんですね。けれどもそれが地に蒔かれて生長すると、2メートル、時には3メートルを超える大きな木に生長する。神の国とはそのようなものだとイエスさまは言います。神の国はベツレヘムに生まれた一人の小さな赤ん坊から始まりました。神の国の始まりはからし種のように小さなものでした。けれどもその赤ん坊から始まった神の国はやがてこの世界全体に拡がっていくようになる。そして鳥が木の枝に集まってくるように、多くの国々が、多くの人々が神の国の王なるイエスさまを礼拝し、イエスさまのもとに憩うためにやってくる。そのような日が必ずやってくるのだとイエスさまはここで語っておられるのです。

 

私たちの問題

この二つのたとえを通してイエスさまが伝えようとされているのは、神さまの力によって成長し拡大する神の国の姿です。神さまの力によって成長し拡大する神の国の姿。ただしここで注意したいのは、だからと言って私たちは何もしなくてもいいと考えるのは誤りであるということです。聖書は明らかに私たちに神の国の働きに加わるようにと励ましています。神さまは私たちをご自身の働きのために用いてくださるお方です。しかしその考えがいき過ぎてしまうと、ある問題が生じてきます。その問題とは、神の国の拡がりを私たちの頭で理解しようとしてしまうということ。あるいは、神の国が拡がるかどうかは私たちの働きに懸かっているかのように考えてしまうということです。

イエスさまの時代にもそのような問題がありました。聖書にも出てきますが、熱心党と呼ばれる人たちは、ローマ帝国を武力で追払い、革命を起こすことによって、神の国はこの地上にもたらされると考えていました。あるいはパリサイ派の人々。彼らは、律法を厳格に守ることによって神の国はこの地上にもたらされると考えていました。また、キリスト教の歴史の中では、人類が平和な世界を作り上げていけば、やがてこの地上に神の国が完成すると考えた人々もいました。どのような方法にせよ、そういった人々は自分たちの力によって、自分たちの努力、行いによって神の国はもたらされると考えたのです。

しかし、問題はそれだけではありません。この問題には、もう一つの側面が存在しています。それは、自分たちの力ではどうにもならないということを悟り、自信を失い、諦めをおぼえてしまうということです。そのようなことは弟子たちの間でも起こったと思います。御言葉をどんなに一生懸命宣べ伝えても、人々はそれを受け入れようとしない。このガリラヤという田舎で何が「神の国」だ。そんなのあり得るわけないじゃないか。そのような批判を受けることもあったでしょう。そのような中で、彼らは次第に自信を失い、「神の国なんてそんなの無茶ですよ、イエスさま」と諦めの言葉を口にし始める。そのような弟子たちもおそらくいたのだと思います。

また、それは弟子たちだけでなく、異教社会の中に生きる私たちにも起こり得ることではないでしょうか。自分は御言葉を宣べ伝えるんだと意気込んで、勇気を出して家族に、友人に神さまの話をしてみる。教会に誘ってみる。けれども結果は拒絶、もしくはスルー。あるいは、これを見て教会に足を運ぶ人が起こされますようにと願いながらトラクトを配るも、何も反応がない。成果が出ない。そのようなことが続くと、私たちは自信を失っていきます。もう自分には無理だ。伝道は得意な人に任せて、自分は静かに過ごしていよう。そして、そこから神の国自体への諦めが生まれてきます。もうこの地域では神の国はこれ以上拡がっていかないのではないか。私たちの教会もこんなものだろう。もうこれ以上は望めないよ。そのように考えていくと、私自身問われるところが大いにあります。


神の国の力強さ

けれどもイエスさまは今日の箇所で、そんな私たちを励ましておられます。神の国には力がある、そのように励ましてくださっているのです。人間的に考えたら無理なことばかりです。人が人の考え、生き方を変えるのは至難の業です。トラクトを配布して人が教会に来るというのも、現実的に考えれば確率は非常に低い。けれども、神の国の種が蒔かれる時、そこに神さまの力が働くのです。人間には想像もつかない方法でかもしれません。しかし、神の国の種は、御言葉は、確かに力をもっています。そして、今はその種はとても小さいかもしれません。私たちの小さな証しの言葉、1枚のトラクト、あるいは日本中に散らばる小さな教会。それ自体はとても小さなものです。この小さい種が何の違いをもたらすのだろうと疑うこともあるでしょう。けれどもそれはいつしか、私たちの想像が及ばないほどの大きな木に生長するとイエスさまは約束してくださっています。

そして、それは単なる将来の約束ではありません。この約束は今まさに実現しつつあります。ベツレヘムの小さな赤ん坊から始まった神の国。それがガリラヤの田舎で広まり、イスラエル中に拡がっていき、地中海世界全体、そして今や世界全体に拡がっている。弟子たちはこの時点で、自分たちが蒔いた神の国の種が、2000年後には東の果ての日本にまで届くと予想していたでしょうか。恐らくしていなかったでしょう。人間の常識では考えられないことを神さまは成し遂げてくださっている。この確信があって、私たちは初めて神の国の業に励んでいくことができます。神の国の働きは決して徒労に終わることはない。もちろん私たちには様々な弱さや欠けがあります。失敗をすることもたくさんあります。思い通りにいかないこともたくさんあるでしょう。けれども神の国はそういった私たちの弱さ、欠け、失敗の全てを補って余りあるほどの力をもっています。私たちは自分に自信がなくてもよいのです。自分ではなく、神の国の力強さに確信と信頼をもつのです。神さまは必ずことをなしてくださいます。その確信と希望をもって、この新しい年も神の国の業にいよいよ励んでいきたいと願います。

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