申命記31:7-8「先立って進まれる主」

 この元旦礼拝では申命記の御言葉に共に聴いていきたいと思います。先日の年末感謝礼拝の説教の中でも触れましたが、申命記は「モーセの遺言説教」とも呼ばれることのある書です。今朝私たちが開いているこの31章は、いよいよモーセが引退し、次のリーダーであるヨシュアにバトンタッチをする場面を描いています。そこでモーセは1-6節でイスラエルの民全体に語りかけた後、7-8節でイスラエルの民の代表となるヨシュアに語りかけます。

みなさんは「ヨシュア」というとどのような印象をもたれているでしょうか。私が「ヨシュア」と聞いて一番に思い浮かぶのは、「雄々しくあれ強くあれ」という子ども賛美歌です。皆さんはご存知でしょうか。この賛美歌は私がいた神学校の男子寮のテーマソングでもありました。入学したばかりの時、男子寮の新入生歓迎会があったのですが、そこで集まった50人以上の男子が肩を組みながらギターに合わせて一斉に大声で歌った時の衝撃は今でもおぼえています。自分はすごいところに来てしまったなと思ったのと同時に、自然と力と勇気が湧いてくる、そんな体験をしました。

そんなこともあり、私の中で「ヨシュア」と言えば、男らしくて力強くて勇敢なリーダー、そのような印象をずっともっていました。けれども今回この箇所をじっくりと読む中で、ヨシュアは私がイメージしていたほど強い人ではなかったのではないかと思い始めました。7節にもあるように、ヨシュアと言えば「強くあれ。雄々しくあれ」ということばが有名です。このことばは申命記とヨシュア記で合計5回、ヨシュアに向けて語られています。神さまは時には直接、時にはモーセを通して繰り返し繰り返し「強くあれ。雄々しくあれ」とヨシュアを力付け、励ました。これは裏を返せば、ヨシュアはそのように繰り返し繰り返し力付けられ、励まされる必要があったということです。それはヨシュアが担った重い責任を考えれば当然のことだと思います。「神の人」と呼ばれた偉大な先輩モーセの跡を継がなければならない。ものすごいプレッシャーでしょう。しかも彼が担うのは「約束の地」の征服という、ある意味出エジプトよりも大変なミッションです。ヨシュアとしては、「いやいやモーセ先生、ここまで来たなら最後まで責任取ってやってくださいよ」という思いがあったかもしれません。彼は励ましを必要としていました。ヨシュアもそういう意味では「普通の人」だったと思うのです。

けれども、神さまはヨシュアの不安や恐れも含めて、すべてをご存知でした。ですから、申命記の冒頭で神さまは事前にモーセにこのように命じていました。「ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ」(3:28)。神さまは励ましを必要としている人をご存知です。そしてその人を決して放ってはおかれない。時には誰かを通して、あるいは時には直接御言葉を通して、励ましのことばを与えてくださるのです。それが、今朝私たちが開いている申命記317-8節です。もう一度お読みします。「それからモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。『強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない』」。ここで私たちは特に、今日の説教題にもあるように、8節冒頭の「主ご自身があなたに先立って進まれる」ということばに注目していきたいと思います。

まずは前半「主ご自身があなたに先立って」という部分。この「先立って」ということばですが、元のヘブル語を直訳すると、「あなたの前」という意味になります。「主ご自身があなたの前を進まれる」。それがより自然な日本語にするために「先立って」と訳されているわけですが、この「前を」というイメージはとても重要です。私たちは普段恐れを抱く時、どこを見るでしょうか。私は小学生の頃特に暗闇が怖かったので、暗い中を歩かなければいけない時はいつも周りをキョロキョロ見たり、下を向いて自分の足元だけを見たりしていました。恐さのあまり、顔を上げて正面を見ることができなかったのです。恐れとはそういうものではないでしょうか。私たちが何かを恐れる時、私たちの顔は自然と正面から外れていきます。ある時は周りにばかりに目を取られる。またある時は下を向いて自分の足元ばかりを見てしまう。恐れは私たちの目を曇らせ、更なる恐れへと私たちを陥れていきます。

しかしそこで主はこう語られます。顔を上げて、あなたの前にいる主を見なさい、と。周りばかりを見るのではなく、下を向いて自分の足元を見るのでもなく、あなたの前を進む主を見なさいと語るのです。あなたは一人で歩いているのではない。主があなたの前を進み、あなたが進む道を切り開き、あなたを守り導いておられる。主はあなたを決して見放さず、決して見捨てない。だから恐れてはならない。おののいてはならない。それはヨシュアにとって、そして私たちにとって、どれほど大きな励ましとなるでしょうか。神さまは私たちの後ろにいて、「ほら行けよ行けよ」と私たちを無理やり押したりはなさいません。神さまは私たちの前を歩いて、私たちの手を引いてくださる。私たちの前に道を作ってくださる。だから私たちは先が見えない暗闇の中でも、天のお父さまの温かい御手に引かれながら、安心して一歩を踏み出していくことができるのです。

そしてそこで大切になってくるのが8節冒頭の後半、先立って「進まれる」という部分です。これは裏を返せば、神さまは立ち止まっておられるお方ではないということです。イスラエルの民に関して言えば、彼らはすでにヨルダン側の東側を占領していました。ここにみんな住めばいいやと思うこともできたはずです。けれども、神さまは前進を望んでおられました。私はもっと素晴らしい場所、約束の地をあなたたちのために用意しているのだから、私と一緒にそこに向かっていこうじゃないか。神さまはヨシュアとイスラエルの民をそのように励まされました。

私たちも同じです。今いる場所に留まることは簡単です。現状維持が一番楽です。けれども、神さまは私たちの前を歩きながら、一緒に前に進んでいこうではないかと私たちを励まし、招いておられます。では、私たちにとっての約束の地とはなんでしょうか。それは、神の国の完成です。神の国の完成という素晴らしい将来に向かって、私たちは先立っておられる神さまと共に進んでいくのです。そこには色々なことが含まれてくるでしょう。私たち一人一人が神の民として整えられ、キリストに似た者へとさらに成長していくこと。そして私たち教会が福音を宣べ伝え、神の国を拡げていくこと。時には困難が伴うこともあるかもしれません。前に進んでいく中で、様々な障害物や妨害に遭うことがあるかもしれない。けれども、私たちの主が前を歩いておられるのですから、私たちは恐れなくてもよいのです。ただ顔を上げて、真っ直ぐに主を見つめ、主に従い、前に進んでいく。それが私たちに求められている歩みです。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」。この励ましの御言葉をもって、私たちはこの新しい1年も、神の国の完成に向けて前進し続ける歩みを送っていきたいと願います。

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