詩篇92「主に感謝することは良いこと」

 時が過ぎるのは早いもので、今日は2020年最後の主日礼拝となりました。みなさん年末で慌ただしい時間を過ごしておられるかもしれませんが、そのような中でも今日このようにして時間を取り分けて共に集い、私たちの主を礼拝できることをとてもうれしく思っています。

さて、今日は年末感謝礼拝となっています。先ほど「数えよ主の恵み」と歌いましたが、みなさんにとってこの1年間はどのような主の恵みをいただいた1年間だったでしょうか。今日私たちは、この1年間を通していただいた主の恵みをおぼえつつ、主に感謝をするということについて、詩篇92篇を通して教えられていきたいと思います。

今日の説教題にも挙げましたが、詩篇92篇はこのようにして始まります。「主に感謝することは良いことです」。これは詩篇の中では珍しい詩の始まり方です。「主に感謝せよ」であったり、「主に感謝します」ということばは詩篇の中でも多く出てきますが、この92篇はそのどちらでもなく、「主に感謝することは良いことである」という信仰の告白をもって語り始めていく。ここに私たちは、この92篇全体のテーマを読み取ることができます。ここで詩人は、何かがあって、その結果への感謝を述べているのではありません。そうではなく、主への感謝それ自体が良いことであると言っている。そこに込められているのは、詩人の決意としての感謝です。私はどんな状況であっても、何が起ころうとも、主に感謝すると決めた。そのような確固たる決意の表明をもって、詩人はことばを紡ぎ始めていくのです。

しかしなぜ詩人はそこまでの確固たる決意を表明することができたのでしょうか。その根拠について語られているのが4節です。「主よ/あなたは/あなたのなさったことで/私を喜ばせてくださいました。/あなたの御手のわざを/私は喜び歌います」。「あなたのなさったこと」、そして「あなたの御手のわざ」。これは神さまの救いの御業を指しています。この詩篇の表題には「安息日のための歌」とありますが、これはおそらくユダの民がバビロン捕囚から解放された後、再建された神殿で、安息日の礼拝の時に歌われた歌だと言われています。詩人は、捕囚からの解放という神さまの救いの御業をその身をもって経験していました。彼のうちには、生き生きとした救いの喜びがあった。だから彼はその救いの喜びを根拠に、「主に感謝することは良いことです」という確固たる感謝の決意を述べることができたのです。

けれども、ことはそう簡単に行きません。詩人はその後、主への感謝の決意を揺るがしかねないこの世界の状況に遭遇します。それが5節以降です。5節以降はそれまでの明るい雰囲気から一変して、この世界における悪の存在に言及されるようになります。7節の「悪い者」、「不法を行う者」、9節「あなたの敵」、そして11節「私を待ち構えている者ども」、「私に向かい立つ悪人ども」。詩人自身は神さまの救いの御業によって、喜びと感謝で溢れていた。しかし、この世界の現実に目を向けると、そこには悪が、不正が平然と蔓延っている。正しい者が虐げられ、悪者が栄える、そのような悲しい世界の現実が存在している。普通、そのような世界にいると、自然と感謝と喜びは消えていきます。代わりに嘆きが、怒りが心の中にふつふつと湧いてくる。主よ、なぜこのような悪を許されるのですか。なぜ私ばかりが、あるいはあの人ばかりがこんな目に遭わなければいけないのですか。主よ、あなたは一体何をしておられるのですか。そう叫ばざるを得ないのがこの世界の現実です。詩人はまさしくそのような悪の現実に置かれていました。

しかし、そこで詩人は何と告白したか。5節「主よ/あなたのみわざは/なんと大きいことでしょう。/あなたの御思いは/あまりにも深いのです」。この世界の悪の現実にあって詩人が目を向けたのは、神さまの御業の大きさ、御思いの深さでした。6節に「無思慮な者は知らず/愚かな者にはこれが分かりません」とあるように、私たち人間には神さまのなさる御業が分からないことが多くあります。神さまはこの出来事を通して一体何をなさろうとしているのか、私たちには分からないことがあまりにも多過ぎる。けれども詩人はそこから不平不満を漏らすのではなく、神さまへの賛美を口にしました。そしてそこから神さまへの信頼を告白します。7節「悪い者が青草のように萌え出で、不法を行う者がみな花を咲かせても、それは彼らが永久に滅ぼされるためです」、そして12-13節「正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます。彼らは主の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせます」。神さまはこの世界の悪の現実を決して放ってはおかれない。今は悪が栄えているように見えるかもしれないけれども、それは実は彼らの滅びの始まりなんだ。やがて必ずこの世の悪が罰せられ、主に信頼する者が豊かに祝福される、そのような時がやって来る。なぜなら8節にあるように、主は永遠にいと高き所、天におられて、この世界の全てを天から支配しておられるから。そのような神さまへの絶対的な信頼を詩人はここで告白しています。

そして14節「彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります」。「彼ら」とは主に信頼する正しい人のことです。主に信頼する者は、たとえ年老いて「外なる人」が衰えたとしても、その人の「内なる人」、魂は新しくされ続け、いよいよ豊かな実を実らせ、青々と生い茂るようになる。そしてその人は長い人生を振り返りながら、このように告白するようになるのです。15節「こうして告げます。『主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません』」。「岩」とは揺るがないということです。「この長かった人生、色々とあったけれど、やはり主は正しいお方だった。主の御言葉は、主の約束には決して偽りはなかった。あぁ、この神さまに従って来て本当によかった」、そのような告白に導かれると詩人は確信しているのです。

この15節の告白を読みながら、私は晩年のモーセの姿を思い起こしました。共に開きたいと思います。申命記323-4節です(旧373)。申命記は晩年のモーセが、約束の地を目前にしたイスラエルの民に向けて語った説教です。「モーセの遺言説教」と呼ばれることもあります。その申命記の終盤、32章の歌の中で、モーセはこのように語ります。「まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」。モーセというと、旧約聖書の大ヒーローです。十の奇跡を起こしたり、海の水を割ったり、シナイ山で神さまと直接お会いしたり、大活躍をしました。けれどもその人生の大半は、辛く苦しいものだったと思うのです。エジプトの地で、同胞が虐げられているのを見ながら過ごした40年間。殺人の罪でエジプトを追われ、ミデヤンの地で亡命生活を送った40年間。そして半ば強制的に神さまに召し出され、出エジプトをした後も荒野で放浪しなければいけなかった40年間。その間、反抗し続ける民といつも対峙し、何度も懸命に神さまに執りなすも、たった一度の失敗によって、「約束の地にお前は入れない」と神さまに告げられる始末。普通に考えたら散々な人生です。しかし、その120年の人生を振り返りつつ、モーセは言うのです。「主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」。これぞ信仰です。他の人から見たら散々に見えるかもしれない人生。しかし主に信頼するならば、私たちはそこに、神さまの愛と配慮に満ちたご計画が存在していることを確信することができるのです。そして人生を振り返りつつ、「あぁ、主は確かに正しいお方だった」、そのような告白へと導かれていくのです。

そこで私たちはもう一度、詩篇9215節に戻りたいと思います。この詩人はおそらくまだ年老いてはいなかったと思いますが、それでもなお、自分は年老いても主の真実を証しし、主に感謝し続けると確信しています。それはなぜでしょうか。それは主への信頼があったからです。詩人はこの時まさに困難の中、試練の中にいました。そしてこれから先も、自分には理解できないこと、主よなぜと叫びたくなることが起こるかもしれない。しかし主はその大きく深い御手のご計画の中で、必ずことを最善になしてくださる。祝福へと導いてくださる。だから詩人は「主に感謝することは良いことです」と、確信をもって感謝の決意を告白することができたのです。それはすでに起こったことへの感謝だけではありません。まだ見ぬ将来をも感謝をもって迎えることができる。感謝の「先取り」です。それによって、私たちの人生の全てが感謝で溢れてくるようになる。

この感謝の信仰を、私たちは自分のものとしていきたいと願います。それは「言うは易く、行うは難し」かもしれません。現実は厳しいかもしれない。けれどもこの感謝の信仰を自分のものにするとき、私たちの人生は感謝と喜びで満ち溢れるようになります。ですから、「主に感謝することは良いことです」この感謝の決意の告白に導いてくださいと聖霊さまに祈り続けていきたいと思います。そして、主への感謝をもってこの1年を締め括り、そして感謝をもって、まだ見ぬ新しい1年を迎えていきたいと願います。「主に感謝することは良いこと」だからです。

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