ルカ2:8-20「喜びの知らせ」

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。今朝みなさんとともに、この教会でクリスマス、イエス・キリストの誕生をお祝いできることをとてもうれしく思っています。初めに短くお祈りをします。

神さま、これから私たちは聖書が語るクリスマスのメッセージに聞いていきます。どうか神さまご自身が私たち一人一人の心に語りかけてくださいますように。救い主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

 

序:暗いニュースに覆われたこの世界

今日は20201220日、25日のクリスマスの5日前です。そしてクリスマスが近づいているということは、年末が近づいているということでもあります。2020年の終わりまで残り1週間半ほどとなりました。2020年は色々な意味で記憶に残る1年となりました。みなさんにとって、2020年一番のニュースは何だったでしょうか。ちょうど昨日、ネットニュースで「2020年日本の10大ニュース」という特集が組まれていました。中には「9位 藤井聡太七段 最年少タイトル」であったり、「6位 『鬼滅』(アニメ映画)最速100億円」という明るい、もしくは楽しいニュースもありましたが、その他の大半は、「1位 緊急事態宣言」に始まり、コロナによる著名人の死去であったり、オリンピック延期、学校への休校要請、甲子園の中止など、新型コロナウイルスに関連する暗く悲しいニュースばかりでした。またテレビニュースをつけると流れているのはいつも、医療現場の逼迫した様子であったり、観光施設や宿泊施設、飲食業者の悲鳴の声です。今年はいつも以上に暗いニュースに覆われた1年だったというのは誰しもが感じているところだと思います。

 

聖書が語る「喜びの知らせ」

しかしそんな世の中にあって、遥か昔、2000年前から変わることのない喜びのニュースを私たちに届けている書物があります。それは聖書です。先ほど司会者の方に読んでいただいた箇所の10節にはこのようにあります。「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。』」「大きな喜びを告げ知らせます」。この「告げ知らせる」という言葉ですが、聖書が元々書かれたギリシャ語では、「よい知らせ、よいニュースを宣べ伝える」という意味をもっています。つまり、ここで御使い(天使)が言っているのはこういうことです。「私は全ての人に与えられる大きな喜びのニュースをあなたがたに告げ知らせます」。あなたがたにどうしても知らせたい喜びのニュースがある、聖書はそのように語っています。

では、聖書がそうまでして伝えたい喜びのニュースとはなんでしょうか。その内容が書かれているのが続く11節です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、それこそが聖書の語る喜びのニュースです。

ここで私たちは「救い主」という言葉について考えていきたいと思います。この「救い主」という言葉は文字通り「救ってくれる人、お方」という意味ですが、この「救い」ということは、何もないところから起こってくることではありません。救い主が生まれるというからには、救いを必要とする状況がそこにあるわけです。そうでなければ、救い主の誕生というのはありえません。ですから、「救い主が生まれる」という喜びの知らせを理解するためにはまず、救いを必要としている状況について知らなければならないのです。

 

救いの必要性

まずはこの聖書の文脈から考えていきましょう。「救い主が生まれる」という喜びの知らせは、まず羊飼いたちに届けられたと聖書は記録しています。今の時代、羊飼いと言うと、牧場で毎日動物と戯れている穏やかな人たちというようなイメージをもつかもしれませんが、聖書が書かれた2000年前のイスラエルではそうではありませんした。当時はローマ帝国がイスラエルを支配していましたから、イスラエルはローマの属国としてすでに虐げられていたわけですが、羊飼いというのはそのイスラエル社会の中でも最も低い社会層に属していた人々でした。彼らは社会の底辺で、貧しさと虐げの中にいました。今日の箇所にも「羊飼いたちが野宿をしながら」とあるように、彼らは町の中に入っていくことは許されず、何もない荒野で寂しく羊と一緒に暮らすしかなかったのです。彼らは、自分たちには救い主が必要だということをよく分かっていました。自分たちの力ではこの辛く厳しい状況をどうにも変えることができない。だから自分たちには救い主が必要なんだ。彼らは救い主を切実に求めていました。

私たちはどうでしょうか。私たちは救いを必要としているでしょうか。救い主なんか自分にはいらない、そういう風に思う方もいらっしゃるかもしれません。救い主を求めるのは弱い人たちのすることで、自分はそうじゃない。自分は自分の力だけで生きていける。それはまさしく今の社会が私たちに求める生き方です。どんなに辛い状況でも、自分を信じれば何とかなる。誰かに頼るのではなく、自分の力を信じて頑張りなさい。この世界はそのようにして救い主の必要性を否定しようとします。救い主など必要ないと私たちに強く迫ってきます。

しかし、現実は本当にそうでしょうか。救い主なんて自分には必要ないと言えるほど私たちは強い存在でしょうか。自分の力だけを信じれば生きていけるのでしょうか。改めて問い直したいと思います。どんなに頑張っても報われない世界。どんなに快楽を追い求めても、決して満たされることのない心。家族はいる、友人もいる、けれどもいつまで経っても埋まらない寂しさ。こんな嫌な自分を変えたいと思っても、決して変わることのない自分。この世界、そして自分の心の奥深くを探っていけばいくほど、私たちは自分のうちに救いを必要としている部分があることに気づくのではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない闇が存在していることに気づくのではないでしょうか。

聖書はそれを「罪」と呼びます。「罪」というと犯罪を思い浮かべるかもしれませんが、聖書の言う「罪」はもっと広い意味をもっています。聖書の言う「罪」とは、自分自身では解決することのできない心の闇、人間の力では解決することのできないこの世界の闇のことです。そして聖書は、全ての人はその闇を、罪をもっていると教えています。私たちはみな罪人なのです。自分ではどうしようもできない闇を抱えている。だから私たちは救いを、この闇を照らしてくれる真の光を必要としているのです。

 

救いの喜び

それに気づく時、11節が初めて意味をもちます。11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。キリストは、私たちが抱えるこの闇を照らすためにこの世界に来てくださいました。自分の力では解決できない罪から私たちを救い出すために生まれてきてくださいました。それは単なる過去の出来事ではありません。「今日」「あなたがたのために」とあるように、2000年前にこの世界にもたらされたキリストの救いの力は、「今日」も「私たちのために」働いています。そしてそのキリストを救い主として信じ、私たちが聞き従うべき唯一の真の主として受け入れる時、キリストの救いの力は私たちの闇の中に突入してきます。その光によって、私たちの心に真の愛と平和がもたらされます。そしてその光はやがて私たちの心の中に留まらず、この世界全体の闇を明るく照らし出すようになるのです。

なぜこんな自分にと思います。なぜこんな闇を、罪を抱えている自分に救いが与えられるのか。それは、神さまが私たちを、あなたを愛しておられるからです。神さまに与えられたいのちを、かけがえのない人生を、闇の中でではなく、光の下で、喜びをもって生きて欲しいと願っておられるからです。だから神さまは、この世の、私たちの闇を照らすために、救い主イエス・キリストをこの世界に送ってくだいました。それこそが、聖書の語る「喜びのニュース」です。先ほども申し上げたように、それは過去のニュースではありません。「今日」のニュースです。イエス・キリストを救い主として、私たちが聞き従うべき唯一の主として受け入れるなら、「今日」、聖書の語る救いが現実となるのです。

救い主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの時、この「喜びのニュース」が私たちに与えられている幸いをおぼえたいと思います。100年に一度と言われるほどのパンデミックの中、暗いニュースばかりが流れる世界です。しかし私たちには2000年前から変わることのない、人類史上最大の「喜びのニュース」が与えられています。「今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」この喜びのニュースを私たちは今日、私たち自身の喜びとして新たに受け取っていきたいと願います。

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