ルカ2:1-7「真の平和をもたらす方」

 

「あっさり」とした誕生物語

今朝私たちが開いているルカの福音書21-7節はイエスさまの誕生そのものの場面を記した、まさにクリスマスど真ん中と言えるような箇所です。この箇所をもとにしたお話や降誕劇などのお芝居はたくさんありますので、みなさんそれぞれにイメージをもっておられると思います。長旅で疲れ切ったヨセフとマリアは、寒さと空腹のなか宿をたらい回しにされ、やっと見つけた場所もボロボロの家畜小屋で、人々の拒絶と極度の貧しさの中でイエスさまが生まれた…。おそらくそういったイメージを私たちはもっていると思います。

けれども今日の箇所を実際によく読んでみると、その語り口は私たちがもっているイメージと比べてかなりあっさりとしているのではないかと思います。そこにはヨセフとマリアが発した言葉や思いについては何も記されていませんし、人々の反応も何も記されていません。「〜があった。〜だった」と、ただ淡々と事実が述べられているだけです。

また、細かい部分に目を向けていくと、私たちのイメージとは少し合わない部分も出てくるかもしれません。例えば、降誕劇などではよく、旅を終えてベツレヘムに到着したところでマリアが産気づいて、急いで宿を探すという場面がありますが、今日の6節を見ると、「彼らがそこにいる間に」としか書いてありませんので、ヨセフとマリアはすでにベツレヘムにしばらくの期間いて、その途中でイエスさまを産んだという風に読むこともできます。また7節にある「宿屋」という言葉ですが、これは「客間」とも訳せる言葉で、実際にそのように訳している日本語訳聖書もあります。当時のイスラエルの一般的な家屋というのは、長屋の真ん中に居間があって、その両脇に客間(ゲストルーム)と家畜用の部屋があるという構造をしていたようです。そのように考えると、マリアとヨセフは滞在するところがあったけれども、お産のためのスペースが客間にはなかったため、家畜用の部屋でイエスさまを産んだと解釈することもできます。もちろんそれが正解とは限りません。いわゆる降誕劇のイメージが正しいかもしれません。学者たちの説にも色々とあります。ですのでここで申し上げたいのは、どの解釈が正しいのかということではなく、聖書自体はイエスさまの誕生に関してあまり詳細を語っていないということです。ルカはイエスさまの誕生物語を非常にシンプルに、事実だけを淡々と記しています。

 

歴史のただ中で

けれども、そのような淡々とした語り口にあって、一つ目立つことがあります。それは1-2節です。お読みします。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。」ここで言われている住民登録というのは、要するに税金を取り立てるための調査です。当時イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、ユダヤ人はローマに税金を納めるために、そのような調査に協力しなければいけませんでした。このような歴史的な経緯を語るのは、事実を淡々と記すルカの語り口にあっているかもしれませんが、ここで私たちが注目したいのは、時のローマ皇帝アウグストゥスへの言及です。ただしローマ皇帝と言っても今の私たちにはあまり馴染みがありませんから、できるだけ今の私たちの感覚で理解していきたいと思います。例えば、将来誰かが私の伝記を書くとします。普通でしたら、その書き出しは「齋藤謙治は199637日、新潟県亀田町で、齋藤五十三と千恵子の間に生まれた」となると思います。けれどもそれがもしこのようになっていたらどうでしょうか。「ビル・クリントンがアメリカ大統領で、村山富市が日本国首相の頃、齋藤謙治が生まれた」。話のスケールが一気に変わります。私の誕生という小さな出来事を、当時の世界の歴史の中に位置付けることによって、私が世界的な人物であることを伝記の著者は伝えようとしている、そのように言えると思います。

実は今日の1-2節というのはそのようなルカの意図が込められている箇所です。ルカはイエスさまの誕生という、はたから見れば小さな出来事を、世界の歴史の中に置くことによって、イエスさまは普通の平凡な人として生まれたのではない、イスラエル人だけを救うために生まれたのでもない、この世界全体を救うために生まれてきてくださったのだ、そのことを伝えようとしているのです。ですからクリスマスというのは何も教会だけの行事ではありません。イエスさまはクリスチャンのためだけに生まれたのではありません。イエスさまは世界中のすべての人のために生まれてきてくださった。ですから、私たちはその喜びの知らせを一人でも多くの人と分かち合っていきたいのです。

 

真の平和

さて、ここで皇帝アウグストゥスについてもう少し詳しく見ていきたいと思います。この人物は非常に有名でして、世界史の教科書にも間違いなく出てくる人物です。本名はオクタヴィアヌスと言いますが、彼はかの有名なユリウス・カエサルに養子として迎えられ、カエサルの跡を継ぎ、権力闘争に打ち勝った後、紀元前27年に地中海世界を統一し、ローマ帝国の初代皇帝となった人物です。そしてそれによってローマ帝国内の争いはなくなりましたから、彼の名前をとって「アウグストゥスの平和」という言葉が生まれ、ローマ帝国では次第に皇帝が神として崇拝されるようになっていきました。例えば、小アジア、現在のトルコ近辺ですが、そこではアウグストゥスの誕生日が毎年祝われたようでして、このような記述が残っています。「神の摂理がわれらとわれらの子孫のために、かの人を救い主としてつかわされた。…この世にとって、この神の生まれたもうた日とともに、神の一連の福音が開始された」。一見聖書の言葉のようにも思えますが、これは皇帝アウグストゥスに関する言葉です。彼は平和をもたらした者として「救い主」と呼ばれ、彼の誕生は神の「福音」、よい知らせとして祝われたのです。

しかし、それは真の平和だったのでしょうか。そうではありません。アウグストゥスによってもたらされた平和は、軍事力と富によってもたらされた平和でした。ローマの貴族は平和に毎日を暮らしていたことでしょう。しかしその裏では、ローマの圧政の下で虐げられていた人々がいました。重税に苦しんでいた人々がいました。今日の箇所で出てくる住民登録というのはまさにそのような人々の苦しみを象徴しているような出来事です。自分たちを武力で支配するローマのために、全イスラエルが大移動をしなければいけなかった。身重のマリアでさえも、ナザレからベツレヘムまではるばる旅をしなければならなかった。それが軍事力と富によってもたらされた偽りの平和の姿です。

このような当時のイスラエルの姿は、私たちにとって決して他人事ではありません。戦争がないという意味で言えば、今の日本はとても平和です。アメリカの軍事力の傘に守られながら、GDP世界3位の国として、多くの富を作り出しています。軍事力と富による平和。しかし現実はどうでしょうか。日本の相対的貧困率は約15%と言われ、格差社会の中で多くの人々が苦しんでいます。ひとり親世帯に関して言えば、その半数以上が相対的貧困に相当すると言われ、先進国の中ではワースト1位と言われています。このコロナ禍のなか、実態はさらに悪化しているかもしれません。また、物質的な貧困に限らず、心の貧困も挙げられます。家庭の崩壊、いじめの問題、不登校、引きこもり、この社会は様々な問題を抱えています。ここに真の平和はない、私たちはそのように言わざるを得ません。

しかし、そのような偽りの平和の世界のただ中に、イエスさまは来てくださいました。11節を見てください。御使いはこのように言っています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。皇帝アウグストゥスではない、飼い葉桶に生まれたイエスという赤ん坊こそがこの世界に真の平和をもたらす「救い主」であり、「主」であり、「キリスト」、油注がれた者、真の王なんだ。ここで御使いが宣言しているのはそういうことです。驚きのメッセージです。真の王は豪華な宮殿ではなく、家畜の部屋の中で、飼い葉桶の中で生まれた。ここにイエスさまの謙りの大きさが表れています。そして14節「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」。「地の上で、平和があるように」。真の平和は決して軍事力と富によってはもたらされない、イエスさまが示す神の愛、謙りによってこそ真の平和はもたらされるのだ。そのような世界全体に対するメッセージがここには秘められているのです。

 

平和はどこに…?

しかし、私たちは思うでしょう。では、その平和はどこにあるのですかと。真の平和をもたらす救い主が誕生してから2000年が経った今でなお、真の平和は実現していません。むしろ世界は悪くなる一方であるようにも思えます。この世界のどこにキリストはいるのか。この世界のどこに救い主はいるのか。そのような問いは今も世界中で溢れていることでしょう。

しかしそのような時、私たちは聖書に記されているイエス・キリストのお姿を思い出したいのです。家畜小屋の飼い葉桶で生まれたことに象徴されるように、イエスさまはその生涯を通して徹底的に謙り、仕える者の姿をとられました。病を癒やし、悪霊を追い出し、罪人たちと共に食事をし、弟子たちの足を洗いました。その謙りによって、真の平和が生み出されました。そして何よりも十字架において、イエスさまは死にまでも従い、その犠牲の死によって、罪によって断絶されていた神さまと人間の関係を修復し、神さまとの和解、平和をもたらしてくださいました。そして復活して天に昇られる際、やがて必ず再びこの地上に来て、神の国の完成を、真の平和をもたらしてくださると約束してくださいました。私たちにはそのイエスさまの約束があります。そんなの信じられないと思われるかもしれません。確かに過去に前例がなかったら信じられないかもしれない。しかしイエスさまはすでに一度、2000年前この地上に来てくださいました。この地上に真の平和の種を撒いてくださいました。同じ方が、今度は栄光の内にこの地上に再び来てくださるのです。クリスマスは単なる過去の出来事ではありません。私たちは2000年前のクリスマスの出来事があるからこそ、再び来られるイエスさま、再臨のキリストに望みをもつことができるのです。クリスマスの出来事は再臨の希望の根拠なのです。その希望を今日私たちは改めて確認したいと思います。真の平和をもたらす方は、この世界の闇を照らす方は必ず再び来てくださる。その希望を胸に、私たちは今週も、飼い葉桶で生まれたイエスさまを、私たちの救い主、主キリストと告白していきたいと願います。

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