ピリピ3:20「天国人の希望」
おはようございます。そして今日来られたみなさま、ようこそ教会へお越しくださいました。私たちの教会は毎週日曜日にこのように集まって礼拝をしているのですが、毎年この8月第1週の日曜日は特別に、地上の生涯を終えて天に召された、教会の愛する信仰の先輩方のことを憶える「召天者記念礼拝」の時をもっています。皆さまのお手元には、これまで私たちの教会で天に召された方々のお名前の一覧がおありかと思います。今年はお一人、4月にK姉のお名前が加わりました。ご遺族の方々は未だ深い悲しみと寂しさを覚えておられることと思います。また、他のご遺族の方々も含めて、愛する人を天に送る悲しみと寂しさというのは時間が経ってもそう簡単に忘れられるものではない、それは聖書が語っていることでもあります。けれども、私たちは今朝、そのような悲しみや寂しさを超えた先に聖書が示している希望のメッセージに共に耳を傾けていきたいと思います。
あなたは何人?
みなさんは誰かに「あなたは何人ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。おそらくここいる方々はみなさん「日本人です」とお答えになると思います。私もそうです。私は小さい頃から天然パーマがあったり、昔はもっと肌の色も黒かったので、フィリピン人に間違われたことが何度かありますが、何人であるかということに見た目は関係ありません。大事なのは、私たちがどこの国籍をもっているのかということです。ですから、日本人の両親から生まれて日本国籍をもっている私は間違いなく日本人ですし、みなさんもそうだと思います。
ですが、先ほど読まれた聖書の箇所は面白いことを言っています。「私たちの国籍は天にあります」。このピリピ人への手紙というのは、ピリピというところ(今のギリシャ)にある教会に送られた手紙ですから、ここでいう「私たち」というのは教会にいるクリスチャンのことを言っています。ですから、ここでは「クリスチャンの国籍は天にある」、言葉を換えれば、「クリスチャンは天に国籍がある天国人です」と言っているわけです。「天国人」と聞いてみなさんは何をイメージするでしょうか。「いや、まだ私死んでないですけど」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、ここで言っているのはそういうことではありません。聖書は「天」あるいは「天国」のことを別の言い方で「神の国」とも呼んでいます。それはつまりどういうことかと言うと、聖書が語る「天国」というのは、ただ単に人が亡くなったら行く場所という以上に、神さまが王としてそこを治めておられて、そこに真の平和がある、そのような意味をもっているのです。神さまが王として治めておられて、そこには真の平和がある、それが聖書の語る「天国」です。そして今日の箇所では、私たちの国籍はその天国にあると言っているわけです。それは言葉を換えれば、私たちの本国というのはこの日本ではなく、神の国、天国なんだということです。ですから今私たちは自分の本国ではなくて、外国であるこの地上で、天国人として生きているということになります。
天国人の生き方
では、天国人として生きるというのはどういうことなのでしょうか。みなさんご存知のように、それぞれの国にはそれぞれの生き方があります。日本人であれば例えば、時間に正確、和を重んじる、本音と建前を使い分けるといった特徴的な生き方があります。では天国人の特徴的な生き方は何かというと、今日の聖書の箇所の後半にその答えが書いてあります。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」。主イエス・キリストが救い主として天から来られるのを待ち望む、それが天国人の生き方です。聖書にはイエスさまが2000年前にこの世界に来られた時のことが書いていますが、それと同時に、やがて再びこの世界に救い主として来てくださるということが約束されています。そしてその時、この世界で神の国、天国が完成して、真の平和がこの地上にもたらされる。そしてそれだけでなく、天国が完成する時、私たちは新しく造り変えられて、すでにこの地上での生涯を終えた者は体をもって復活して、この地上にもたらされた神の国、天国で永遠に神さまと共に生きるようになると約束されています。聖書が語っているそのような天国の完成の約束、復活の約束を信じて、そこに確かな希望をもって生きる、それこそが天国人の生き方です。天国人はその希望を原動力にして、この地上を生きていくのです。