マルコ2:13-17「罪人への招き」

 

1. レビへの招き

今日私たちが開いているのはイエスさまとレビという人の物語です。このレビという人は、14節に「収税所に座っている」とあるように、税金を集める取税人の仕事をしていました。当時も税金には色々な種類があったようですが、今日の物語の舞台であるカペナウムという場所は、当時ヘロデ・アンティパスという王さまが治めていたガリラヤ地方と、ヘロデ・ピリポという王さまが治めていた地方の境目に位置する町でしたので、レビはおそらく町の門のところに座って、通りゆく人々から通行税を集めていたのだと思われます。今で言うと空港の税関にいる職員といった感じでしょうか。何れにせよ、当時の取税人というのは、人々から大変嫌われていた存在でした。当時は税率がかなり曖昧だったようですので、人々から必要以上に税金を取り立て、私腹を肥やす取税人がたくさんいたようです。また彼らは異邦人と接触する機会も多かったので、宗教的にも汚れているとみなされていたようです。実際レビ自身がどれほど悪いことをしていたのかは分かりませんが、レビが人々から嫌われていたというのは間違いのないことです。収税所を通り過ぎる人々からは、冷たく、蔑むような目線を毎日向けられていたことでしょう。

しかしある日、人々とは全く違う目線を向けてくる一人の人とレビは出会います。14節「イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った」。至ってシンプルな描写です。そこで起こったことは三つ、①イエスさまがレビを見て、②「わたしについて来なさい」と声をかけ、③それにレビが従った、それだけです。これは以前、シモンとアンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブがイエスさまに召し出された時とほとんど同じ状況です。なぜ彼らはイエスさまの弟子になったのか。その理由は突き詰めていけばただ一つ、イエスさまが目を留め、呼んでくださったからです。それが彼らの弟子としてのアイデンティティの中心にあるものでした。そしてそれはレビも同じでした。実はこのレビの物語はマタイの福音書にも記されているのですが、そこではレビの名前は「マタイ」となっています。当時はシモンとペテロあるいはケファ、トマスとデドモ、サウロとパウロのように、二つの名前をもっているというのは珍しいことではありませんでした。ですのでレビは別にマタイという名前ももっていたということだと思いますが、このマタイ、あるいはレビは後に12弟子のリストに名前を連ねることになります。そして伝承によれば、このマタイ(レビ)というのは第一の福音書、つまりマタイの福音書の著者でもあると言われています。人々から嫌われ、蔑まれていたあのレビが、12弟子に選ばれ、福音書の執筆者としても選ばれ、後世に名を残す偉大な使徒とされていった。しかしどれほど有名になっても、彼のアイデンティティの中心にはいつも今日の物語があったはずです。「こんな自分にイエスさまは目を留め、声をかけてくださった。だから自分は一生イエスさまに従っていくんだ。」そんな単純な、しかし確固たる思いをもって、レビは弟子としての生涯を全うしていったのだと思います。

 

2. パリサイ派の熱心

けれども、レビの物語はそこでは終わりません。レビを弟子として召し出した後、イエスさまはレビの家に行かれました。そしてレビはイエスさまに従っていた他の大勢の人々も招いて、大宴会を催したのです。しかしその宴会はなんともスキャンダラスなものでした。15節「それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。」取税人たちと罪人たちが大勢いたとあります。ここで注目したいのは、「取税人」と「罪人」が一つのセットのように記されているということです。ここで「罪人」と言われている人たちというのは、簡単に言えば律法を守らない人たちのことです。当時のユダヤ社会には大きく分けて2種類の人々がいました。律法を守る「正しい人」と、律法を守らない「罪人」です。「正しい人」の代表格には、16節に出てくるパリサイ派の人々がいました。彼らは律法を熱心に厳格に守ることによって、きよく正しく生きることを何よりも大切にしていました。そんな彼らにとって、異邦人ならまだしも、ユダヤ人でありながら律法を守ろうとしない人々というのは、許せない存在だったわけです。ですからパリサイ派の人々は律法を守らない人々を「罪人」として断罪し、自分たちの「きよさ」を守るために彼らを社会の闇に追いやっていたのです。ですからここで並べられている「取税人」と「罪人」というのは、当時の社会で見下され、蔑まれていた人たちの代表のような存在だったのです。

そう考えると、16節でパリサイ派の律法学者たちが示している反応はある意味当然なこととして聞こえてきます。16節「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。』」食事を共にするというのは、その人がどのような社会的なグループに属しているのかを表すものです。それは今でも同じだと思います。例えばある人が国会議員と一緒に食事をしていたら、私たちは自然と「あぁ、この人は上流階級に属しているんだな」と思うはずです。ですからイエスさまが取税人たちや罪人たちと食事を共にしているというのは、非常に驚くべきことだったわけです。しかもそれに加えて、律法を守らない人々と共に食事をするということは、律法で禁じられている食べ物を食べて、自分の身を汚してしまう可能性があるということでもありました。ですからパリサイ派の人たちは絶対に取税人や罪人たちと食事を共にしなかったのです。彼らにとってはそれこそが神さまに従う道でした。そして彼らはそのような真面目で熱心な信仰をもっていたからこそ、それを全否定するかのようなイエスさまの行動が許せなかったのです。

 

3. 罪人の食卓

それに対してイエスさまはどう答えられたか。17節「これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」前半の「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」というのは、当時よく知られていた格言だったようです。ですからイエスさまはここで、「あなたたちはこの格言を知っているでしょう。私もそれと同じなのですよ」と語ったわけです。

イエスさまは正しい人ではなく罪人を招くために来られた。これはパリサイ派の人々にとって衝撃的な発言でした。パリサイ派の人たちは、自分たちがきよく正しく生きていれば、救い主・メシアが来られた時に、自分たちを神の国に迎え入れてくださると信じていました。だからこそ彼らは律法を一生懸命守っていたのです。しかし、イエスさまはそんな彼らの希望を打ち壊しました。「自分はきよく正しく生きている」と自負している者ではなく、罪の闇の中を生きている人々を見出し、神の国へと招き入れるために自分は来たんだ、そうはっきりと宣言されました。それはつまり、取税人や罪人たちで溢れていたその食卓こそが神の国の真の姿であるということです。

ここに私たちは教会の姿を見ることができると思います。みなさんはアウグスティヌスという人をご存知でしょうか。4世紀から5世紀にかけて活躍した神学者で、後の教会に大きな影響を及ぼした人です。ちょうど一昨日(828日)はそのアウグスティヌスの記念日だったようです。そのアウグスティヌスという人は、「教会は病院のようなものである」という言葉を残しています。この言葉は今日の箇所のイエスさまのことばと通じるものがあります。当たり前のことですが、病院というのは病気をもっている人を迎え入れるところです。アウグスティヌスは教会もそれと同じだと言います。教会は「きよく正しい」人を招き入れるところではない。そうではなく、教会というのは、イエスさまがそうであったように、罪人を招き入れるところなのです。そして教会という病院に招き入れられた罪人は、そこで罪赦され、イエスさまのきよさの中に入れられ、その中で癒しを経験し、そして徐々に内側からきよくされていく。それこそがイエスさまの示す真の神の国の姿であり、真の教会の姿なのです。

クリスチャンでない人を教会に誘う時によくある反応の一つとして、「いやいや、私はそんなきよくないし」というものがあります。教会は「きよい」人たちの集まりであると思われているようです。あるいはクリスチャンでも、何か大きな罪を犯してしまった時、「こんな罪深い自分はもう教会にいられない」と思ってしまう。そういうことがあるように思います。そこには、現代のパリサイ派の問題があるのかもしれません。自分たちがきよく正しく生きることに熱心になるあまり、「あの人は間違っている」「この人は罪を犯している」と他の人を裁くばかりの人になっていないか。私たちは真剣に問う必要があります。

けれども今日私たちが何よりも深く心に刻みたいのは、今日の箇所に記されているイエスさまのことばです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」。イエスさまは罪人である私たちを招いておられる、いや、罪人であるからこそ、私たちに目を留め、「わたしについて来なさい」と私たちを神の国へと招き入れてくださるのです。そのことを確認するのが、私たちが毎月行っている聖餐式です。そこに集められているのは「きよく正しい」者ではなく、取税人や罪人たちのような私たちです。しかしそんな私たちが罪赦され、神の国の祝宴に迎え入れられている。その驚くべき恵みを確認するのが聖餐式です。私たちは聖餐式を迎えるごとに、罪人の自分がイエスさまの十字架によって罪赦され、神の国に招き入れられていることを思い出し、心に刻むのです。そしてそこに留まらず、その聖餐の交わりに、罪赦された者の食卓に、一人でも多くの人々を招き入れていく。罪の中でもがき苦しんでいる人々、社会の闇に追いやられ、「罪人」と蔑まれている人々を招き入れていく。それが教会に与えられている使命です。「わたしについて来なさい」、イエスさまがレビに語られたこのことばは、今を生きるすべての人に今日も向けられています。

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