マルコ1:40-45「手を伸ばして彼にさわり」

 

4月後半から始まったマルコの福音書の連続講解説教もようやく1章の終わりに辿り着きました。今日の箇所はツァラアトに冒された人がきよめられるというところです。これまでもイエスさまが行った癒しについての箇所はありましたから、今日の箇所も一見、数多くある癒しの物語の中の一つなのかなと思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし実はこのツァラアトに冒された人の物語には、他の癒しの物語とは違う、ある特別なメッセージが込められています。この物語を通して神さまは私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。今日も共に御言葉に聴いていきましょう。

 

ツァラアトとは

今日の物語に込められた特別なメッセージを受け取るためには、まずツァラアトという病がどういうものであったかを知る必要があります。ツァラアトというのは旧約聖書が書かれたヘブル語の音をそのままカタカナにした少し特殊な言葉ですが、この病について詳しく書いてあるのは旧約聖書のレビ記13-14章になります。その箇所によりますと、ツァラアトというのは人間の場合は皮膚に表れる病になりますが、人間以外にも家の壁や衣服にも起こる現象だと書いてありますので、それが厳密になにを指しているかはいまだ明らかになっていません。ですので、私たちが使っているこの新改訳聖書では第二版までこのツァラアトを「らい病」と訳していましたが、第三版以降、ツァラアトは「らい病」とイコールではないということで、そのまま「ツァラアト」という言葉で訳すようになりました。こういった経緯は第三版の聖書のあとがきに書いてありますので、関心のある方はぜひ読んでみてください。

いずれにせよ、今日の箇所で重要なのは、ツァラアトに冒された人が当時どのような扱いを受けていたかということです。レビ記13:45-46にはこのように書いてあります。「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。」現代の私たちからすると衝撃的な規定です。なかなか理解するのは難しい。けれども一つ言えるのは、レビ記でいう「汚れ」というのは本来、聖なる神さまの前で人間がいかに罪で汚れた存在であるのかを象徴的にあらわすものだったということです。そこで大切だったのは、聖なる神さまを前にしたら本当に「きよい」人など一人もいない、神さまの前ではすべての人が罪で汚れているということに気づき、悔い改めるということでした。

しかし、当時のユダヤ社会ではそのようなレビ記本来の意図は後ろに退いてしまい、このツァラアトの規定は単に人間同士の差別を生み出すものとなっていました。人々からは「汚れた者」として忌み嫌われ、どこにも自分の居場所はない。当時のユダヤ教の口伝律法を見ますと、ツァラアトに冒された人はそうでない人から50歩以上離れたところにいなければいけないという規定があったり、ツァラアトに冒された人が木の下に立っている場合、その木の下を歩いた者はみな汚れるということまで書いてあります。大切なのは自分たちが「きよく」あることであって、そのためには何としても「汚れた」人を自分たちの社会から排除しなくてはならない。そのような社会の中で、人々から虐げられ、抑圧されていたのが、今日の箇所に出てくる「ツァラアトに冒された人」でした。

 

「お心一つで」

今日の箇所に戻りましょう。40節「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』」「イエスのもとに来て」とありますが、これは当時の社会では本来許されないことでした。けれども、彼はそのような社会のルールを破ってでもイエスさまのもとに近づきたいと願った。そして懇願したのです。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります」。「お心一つで」、これは脚注にもありますが、直訳すると「もしお望みくださるなら」という意味になります。「もしあなたがそうできる力をもっているなら」ではないのです。彼は、イエスさまがあらゆる病を癒す力をもっていると確信していました。だからこのように願ったのです。「イエスさま、あなたがあらゆる病を癒す力をもっておられることを私は知っています。けれども、私は汚れた者です。人々から忌み嫌われています。誰も私に近づこうとしません。イエスさま、あなたはどうですか。こんな汚れた私ですが、あなたはそれでも私を癒してくださるのですか」。あまりにも謙虚な願いです。謙虚を超えて卑屈と言ってもいいかもしれません。社会からの差別が彼をそこまで卑屈な思いにさせてしまったのかもしれません。しかしその中にあって、彼はイエスさまの権威への信頼を告白し、切なる願いをもってイエスさまに近づいていくのです。私たちは彼のこの悲惨な姿の中に、きらりと輝く信仰を見ることができます。

 

イエスがもたらした救い

そのような願いを受けて、イエスさまはどのように反応されたのか。41節「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」「深くあわれみ」、この言葉の元のギリシャ語は、人間の内臓を意味する言葉が語源となっている単語でして、聖書の中ではイエスさまが抱く特別な感情として使われています。ある翻訳はこの41節を「イエスは、腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られ」と訳しています。イエスさまは単にこの男を「かわいそうだな」と思ったのではなく、内臓が揺さぶられるほどの強いあわれみの思いを抱かれたということです。そこにはこのような差別を生む社会への怒りの思いも含まれていたことでしょう。イエスさまはそのよう深いあわれみをもって、「手を伸ばして彼にさわ」りました。これは驚くべきことです。本来であれば、ツァラアトに冒された人がイエスさまに近づいたということ自体が許されないことです。しかしイエスさまはそれを超えて、「汚れた者」とされていたこの男に自ら手を伸ばして触れたのです。この男にとって、それはどれほど感動的なことだったでしょうか。「こんな汚れた私に、あのイエスさまが自ら触れてくださった」。イエスさまはそれまでこの男と社会を隔てていた分厚い壁を自らの手で打ち砕かれたのです。

そしてイエスさまは言いました。「わたしの心だ。きよくなれ」。「もしあなたがお望みくださるなら」と切に願った男に対して、イエスさまは「わたしはそう望む」と、男の願いをそのまま受け入れました。そして続けて「きよくなれ」との言葉。これは単なる病の癒しを意味する言葉ではありません。この男は社会から排除される中で、神の民の内にも数えられていませんでした。「汚れている」者は神の国に入ることができないとされていたからです。しかしイエスさまはこの男に手を触れて、「きよくなれ」と命じ、この男の「汚れ」をきよめることによって、神の民、神の国へと招き入れたのです。

また、イエスさまはこの男への配慮も忘れませんでした。44節でイエスさまは男に対して、自分を祭司に見せ、人々への証しのために律法の規定通りにささげ物をしなさいと命じています。レビ記の規定では、ツァラアトがきよめられた者は祭司のところに行き、彼が確かにきよくなったということを宣言してもらい、その後にささげ物をしなければならないとされています。それが社会復帰の手段だったわけです。ですからイエスさまはその通りに命じることによって、病を癒すだけでなく、「これからは聖なる民の一員として生きていくように」と、男を社会的な復帰へと押し出したのです。イエスさまがもたらす救いというのは霊的、身体的なところに留まらず、社会的なところにまで及んでいく。私たちはそこに、イエスさまの救いの大きさを見ることができます。

 

神の国の姿

私たちは今日の箇所から、イエスさまがもたらした神の国の姿に目を留めていきたいと願います。ここで描かれているのは、病の人が癒されるという単なる癒しの物語ではありません。ここで描かれているのは、人々から差別され、虐げられ、社会の深い闇の中を生きていた一人の人を深くあわれみ、手を差し伸べ、触れて、神の国へと招いた、イエスさまの救いの御手です。イエスさまが示してくださったそのような神の国の業に私たちも加わっていきたいと願います。神の国がもたらされるとはどういうことでしょうか。一切の差別、偏見、争いがなくなり、真の平和が訪れるということです。分断された社会に和解がもたらされるということです。そして何よりも、汚れに苦しんでいる一人の人が、イエスさまに触れられ、きよめられ、聖なる民の一員に加えられるということです。

今私たちが生きているこの世界にも、社会の闇の中を歩んでいる人々が大勢いることを覚えます。その中にあって、御言葉は私たちに問いかけています。当時のユダヤ社会のように、自分の「きよさ」を守ることにこだわり、闇の中にいる人々との間に分厚い壁を建てるのか。あるいは、イエスさまのように深いあわれみをもって彼らに近づき、手を伸ばして彼らに触れ、神の国へと招いていくのか。私たち自身がすでにイエスさまに触れられ、きよめられ、神の国へ招かれたことを思う時、私たちが進むべき道は一つ、イエスさまに倣う道ではないでしょうか。

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