マルコ1:16-20「キリストへの弟子入り」

 今日の説教題は「キリストへの弟子入り」としました。「弟子入り」というとみなさんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。私がパッと思いついたのは、落語の世界です。私は中学生の頃、台湾の日本人学校にいたのですが、そこの学級文庫に落語家の立川談春という人の自伝があったので、それを読んだ記憶があります。立川志らくの兄弟子ですね。彼は立川談志という大落語家に弟子入りしたわけですが、その自伝の中では彼がどうやって談志に出会い、彼に惚れ込み、弟子入りを志願し、厳しい訓練を受けながら落語家になっていったのかということが書かれていました。立川談志という人は破天荒で非常に厳しい一面ももっていたようなのですが、私はそれがすごく印象的で、「誰かに弟子入りするっていうのは大変なことなんだなぁ」と思った記憶があります。

少し前置きが長くなりましたが、一般的な「弟子入り」というのはそういったものだと思います。自分が惚れ込んだ師匠を出待ちして、「弟子にしてください」と懇願し、何回か断られてからようやく弟子にしてもらえる。そしてこれまでの日常を捨て、家族を離れて、その師匠についていく。それが典型的な「弟子入り」だと思います。

今日の箇所ではシモンをはじめとした4人の弟子たちがイエスさまに「弟子入り」する場面が描かれています。この4人の弟子入りというのは、先ほど申し上げたこの世界の一般的な弟子入りと共通する部分をもっています。今日の箇所を見ると、彼らはそれまでの仕事や生活を捨て、家族を離れてイエスさまに従っていったとありますが、これはこの世界の一般的な弟子入りでも起こり得ることです。私が読んだ立川談春も、それまでの生活と家族を離れて師匠の立川談志についていきました。

けれども、この世の一般的な「弟子入り」と今日の箇所での「弟子入り」とでは、決定的に違うところが一つだけあります。それは、一般的には弟子の方から師匠に弟子入りを志願するのに対し、今日の箇所ではイエスさまの方から弟子たちに声をかけ、弟子として召し出したということです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」、この一言でイエスさまは弟子たちを召し出しました。ある意味強引とも思えるような、一方的な語りかけでした。

また、今日の箇所を読んでいくと、「ガリラヤ湖のほとりを通り」という表現や、「湖で網を打って」、「すぐに網を捨て」、「網を繕っていた」といった表現など、情景描写が細かくなされているのが分かりますが、その反面、この弟子たちの心情というのは一切書かれていません。マルコの福音書は今日出て来るシモン、後のペテロの証言をもとにしてマルコという人が書いた福音書と言われているのですが、だとすると尚更、今日の箇所でシモンの心情が一切描かれていないのが不思議に思えます。書こうと思えば細かく書けたと思うのです。イエスさまの第一印象はどうだったのかとか、イエスさまのどういうところに惚れ込んだのかとか、書いてくれてもよかったはずです。けれども実際に書いてあるのは、イエスさまが彼らに目を留め、声をかけたということ、そして彼らはそれまでの生活を捨て、すぐにイエスさまに従ったということ、この事実だけです。ですので、私たち読者としてはなぜ彼らはすぐに従ったのか、あまり納得できないと思うのです。

けれども、イエスさまが一方的に召し出し、弟子たちはすぐに従った、この事実しか書かれていないということにこそ、今日の箇所の大切なメッセージが隠されているのです。みなさんは、「どうしてあなたはクリスチャンになったんですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか。きっと様々な答えがあると思います。イエスさまとの出会いのきっかけは人それぞれです。私のようにクリスチャンホームで生まれた人もいれば、教会の〇〇クラスがきっかけとか、友人に誘われてとか、色々とあると思います。私たちそれぞれがオリジナルな証しをもっています。それは素晴らしいことです。けれども、「なぜクリスチャンになったのか」、「なぜキリストの弟子になったのか」という問いを突き詰めていけば、恐らく私たちは一つの共通した答えに辿り着くはずです。なんでしょうか。それは、「イエスさまが私に目を留め、声をかけ、召し出してくださった」、この一点に尽きます。もう一度言います。「イエスさまが私に目を留め、声をかけ、召し出してくださった」、この一点です。

逆に言いますと、究極的なところにこの答えがないと、私たちの信仰はどうしても不安定なものになると思います。「いや、イエスさまじゃない、私が自分でイエスさまを探し出して、自分の意志、自分の決断でイエスさまに弟子入りしたんだ」、それは一見非常に強い信仰のように見えますが、そのように自分の意志や決断が全てだとすれば、それが揺らいだときに、私たちの信仰はいとも簡単にぐらついてしまいます。そして事実、私たちの意志や決断というのは決してそこまで強くはありません。何かがあれば簡単に揺らいでしまう、そんな脆さをもっているのではないでしょうか。

イエスさまの弟子たち、とりわけシモン・ペテロは特にそうでした。イエスさまが捕まった日の夜、「お前はイエスの弟子だろう」と問われたペテロは、三度もイエスさまを「知らない」と言い、イエスさまを裏切りました。彼の意志と決断はいとも簡単に崩れてしまった。けれども、そんな挫折、失敗を経験してもなお、ペテロは立ち直り、やがて立派な「人間をとる漁師」になっていきました。なぜでしょうか。それは、自分の意志や決断がいかに脆くても、イエスさまの召しは決して変わることがないということを、復活したイエスさまとの再会を通してペテロが知ったからです。ガリラヤ湖のほとりでイエスさまと出会ったあの日、自分に目を留め、「わたしについて来なさい」と声をかけてくださったイエスさまは、裏切られてもなお、変わらず自分に目を留め、「わたしについて来なさい」と声をかけてくださった。その時ペテロは気づいたはずです。自分がイエスさまの弟子になったのは、自分がイエスさまに従おうと決心したからではない。イエスさまが自分を選び、自分に目を留め、自分を召し出してくださったからだと。そしてそのイエスさまの召しは、自分の意志や決断が揺らごうと、決して変わることがないのだとペテロは気づいたのです。だからこそ、今日のこのマルコの箇所では、ペテロの思いや決断ではなく、イエスさまがペテロを一方的に召し出したという事実だけが記されていると思うのです。

ですから私たちも今日の箇所から、そのような私たちの信仰の原点を改めて心に刻みたいと思います。私たちはなぜイエスさまに従っているのでしょうか。なぜキリストの弟子となったのでしょうか。それは、イエスさまが私たちを一方的に見出し、召し出してくださったからです。そしてその召しは変わることはありません。イエスさまと初めて出会ったあの時、「わたしについて来なさい」と初めて語りかけてくださったあの時と同じように、今もイエスさまは私たちに語りかけておられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」そのイエスさまの召しに私たちはどのように応答するでしょうか。御言葉は今日も私たちに問いかけています。

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