マルコ1:14-15②「神の国への招き」

 今日は先週に引き続き、マルコの福音書114-15節の御言葉に聴いていきましょう。まずは先週の復習ですが、先週は特に15節の前半部分「時が満ち、神の国が近づいた」ということばに焦点を当てました。聖書が語る「神の国」とは「王なる神さまの支配」を意味しているということ、イエスさまによって「神の国」がこの地上にもたらされ、完成へと動き始めたこと、そして私たちは教会を通して「神の国」の祝福の内に生かされていること。私たちは15節前半の短い御言葉から、力強い神の国の福音を聴きました。

さて、今日は15節の後半に目を留めていきます。そこにはこのように書いてあります。「悔い改めて福音を信じなさい」。「時が満ち、神の国が近づいた」とは福音の事実の宣告であると先週申し上げました。神の国はイエスさまによってこの地上で始まった。では神の国で生きていくとは果たしてどういうことなのか。そういった「神の国での生き方」が示されているのがこの15節後半になります。そこには二つの生き方が示されています。一つ目は「悔い改める」生き方、二つ目は「福音を信じる」生き方です。今日私たちはこの二つの生き方について、御言葉から教えられていきたいと思います。

 

「悔い改める」生き方

まずは「悔い改め」についてです。私たちは以前バプテスマのヨハネの話の中で、悔い改めから福音は始まるということを確認しました。悔い改めの先には赦しが約束されている、だから悔い改めは福音の始まりなんだということです。では悔い改めとは具体的にどういうことを意味しているのでしょうか。よく私たちは子どもに「悔い改め」の意味を説明する時に、「悔い改めっていうのは自分の罪を素直に認めて、神さまにごめんなさいと言うこと」という風に言うと思います。それは確かにその通りです。とても分かりやすい説明だと思います。けれども、その説明で「悔い改め」のすべてが説明できているかというと、そういうわけではありません。悔い改めは「悔い」と「改め」の二つがくっついている言葉ですが、先ほどの説明だと「悔い」だけで終わってしまいます。「ごめんなさい」と自分の罪を悔いるだけで終わってしまうのです。しかし悔い改めで大事なのは、「悔い」の後に「改め」が来ることです。実際に「悔い改め」という言葉は元のギリシャ語ですと「メタノエオー」という言葉になるのですが、それは元々「方向転換」という意味をもっています。そして実はこの新約聖書の言葉の由来は旧約聖書にあるのですが、旧約聖書ではこの言葉は「立ち返る」と訳されています。「立ち返る」、そして「方向転換」。私たちはどこに立ち返り、どの方向に向き直る必要があるのでしょうか。それはもちろん、神さまです。今まで神さまからそっぽを向いていた自分、そこからぐるっと方向転換をし、神さまと正面から向き合い、神さまの方へと真っ直ぐに帰っていく。それが「悔い」「改め」の意味しているところです。

しかもこれは1回きりで終わることではありません。今日の箇所では「悔い改めなさい」となっていますが、これは元のギリシャ語を見ると英語で言う「現在進行形」のようなかたちになっているので、それをそのまま訳すと、「悔い改め続けなさい」ということになります。これはつまり、神の国に生きるとは、悔い改め、方向転換、立ち返りが私たちの生き方になるということです。これは船をイメージするとよく分かると思います。私たちは人生という海を船で渡っている船乗りだとしましょう。ある日私たちは神さまと出会い、船の向きをぐるっと変えて、神さまの方に向かっていく航海を始めます。決定的な悔い改め、方向転換、立ち返りです。けれども私たちは船を進めていく中で、自分自身の罪深さ、あるいは周りからの誘惑の故に、簡単に正しい航路から外れてしまいます。ですから私たちはその度に神さまの方に正面から向き直り、神さまの方に照準をしっかりと合わせて舵をとっていく必要があるのです。このように、悔い改めが私たちの生き方になるというのは、常に神さまの方へとまっすぐ舵をとり続けるということなのです。それこそが、イエスさまがここで示している神の国での生き方の一つ目、悔い改めの生き方です。

 

「福音を信じる」生き方

次に二つ目、「福音を信じる生き方」について考えていきましょう。これも先ほどの「悔い改め」と同じように、現在進行形で書かれていますので、原文に忠実に訳すと「福音を信じ続けなさい」ということになります。

ただしここでも重要なのは、それが具体的に意味するところです。先週、福音とは「イエスさまによって神の国、神の支配がこの地上にもたらされたというよいニュース」という意味だと先週確認しました。その「よいニュース」を信じ続けなさいとイエスさまはここで言っているわけですが、これは、「そうか、イエスさまによって神の国がもたらされたんだ、なるほどなるほど」というように、そのニュースを頭で知識として信じ続けるということではありません。もちろん頭で信じることも大切です。けれども、聖書が言う「信じる」というのはむしろ、「信頼」に近い意味をもっています。つまりどういうことかと言うと、イエスさまによって神の国、神の支配がもたらされたという「福音」「よいニュース」に信頼しながら生きていくということです。たとえどんな困難があっても、どんなに苦しいことがあっても、神さまは決して私たちを見捨てたわけではない。私たちは神さまの支配の中に生かされている。イエスさまがすでに世の悪に打ち勝ってくださったから、私たちはもう恐怖に支配される必要はない。イエスさまが聖霊さまを通していつも私たちと共にいてくださる。その「福音」の事実に信頼をしながら、安心して、希望をもって生きていくということです。福音の事実に信頼しながら生きなさい、それこそがここでイエスさまが言っている「福音を信じなさい」ということの意味です。

 

神の国への招き

さて、ここまで聞いてみなさんはどのように思われたでしょうか。「悔い改め続けなさい」、「福音を信じ続けなさい」、この二つは文法的には命令形で書かれているわけですが、これをイエスさまからの「命令」として捉えると、それが私たちの重荷となってしまうことがあると思うのです。「悔い改めなさい」「信じなさい」と命令されて、その通りにしようと頑張ってみるけど、どうしても悔い改めが続かない自分、福音に信頼し続けることができない自分ばかりに目がいってしまって、「ああ、自分はやっぱりダメだ」、「こんな自分は神の国の民にふさわしくない」、そう思ってしまうことがあるかもしれません。けれども私たちが最後に覚えたいのは、ここでイエスさまは私たちを重荷で縛りつけ苦しめる「律法」を宣べ伝えたのではなく、私たちを自由にする喜びの「福音」を宣べ伝えたということです。ですから、私たちは「悔い改めなさい」「信じなさい」というのはイエスさまのことばを「命令」としてではなく、神の国への「招き」として受け取っていきたいのです。イエスさまはこの地上に、私たちの只中に来てくださり、神の国を打ち立ててくださいました。そして放蕩息子のお父さんのように、両手を広げて私たちを招いているのです。「あなたが今背負っている重荷を捨てて、私の方に帰ってきなさい。私がこの世界を支配しているのだから、私の腕の中で安心して生きていきなさい」、イエスさまはそのような神の国の生き方へと私たちを招いておられるのです。これこそ福音ではないでしょうか。よいニュース、喜びの知らせではないでしょうか。この神の国への招きに私たちは日々応えていきたいのです。そしてこの福音の喜びをしっかりと受け取り、神の国の民として、今週も悔い改めと信仰の歩みを送っていきたいと願います。

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