マルコ1:14-15①「神の国が近づいた」

 

今日でマルコの福音書からの説教は5回目になります。これまで見てきた11-13節はイエスさまが公の働きに出る前の、いわゆる準備期間のようなものでした。そのためマルコの福音書全体から見た場合、これまでの箇所はプロローグで、今日のこの114節からメインストーリーが始まっていくということになります。実際に14節の初めには「ヨハネが捕らえられた後」とありますが、これはヨハネによるメシアを迎えるための備えの期間が終わり、いよいよメシアであるイエスさまご本人の働きが始まったということを意味しています。

 

福音の宣教

では、イエスさまはどのような働きを始めたのでしょうか。14節ではイエスさまの働きが一言でまとめられています。14節「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」「神の福音を宣べ伝えた」、これこそまさに、イエスさまがその生涯を通してなされた働きでした。以前、「福音」とは「よいニュース」という意味であるとお話しをしましたが、イエスさまは神さまがもたらしてくださった、神さまに関する「よいニュース」、「福音」をその生涯をもって宣べ伝えたのです。

では、イエスさまが宣べ伝えた「福音」の内容とは果たしてどのようなものだったのでしょうか。それを説明しているのが15節になります。15節「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」このことばは、イエスさまがこの時1回だけ語ったものではありません。これは、イエスさまが生涯を通して繰り返し繰り返し語られたことばでした。イエスさまが宣べ伝えた福音のメッセージ、そしてその福音を記しているこのマルコの福音書のメッセージは、この15節のことばにすべて集約されると言っても過言ではありません。それほどこの15節のことばというのは中身のぎっしり詰まったものなのです。ですので、私たちは今日と来週の2回に分けてこの箇所の御言葉にじっくりと聴いていきたいと思います。

 

神の国が近づいた

まず今日は1回目ということで、前半の「時が満ち、神の国が近づいた」という部分を見ていきましょう。これは、福音の事実の宣告になります。ここでイエスさまはすでに起こった福音の事実をはっきりと宣告しているのです。「時が満ち」というのはなかなかかっこいい表現ですが、この言葉は日本語でいう「機は熟した」という言葉と同じような意味をもっています。では何の機が熟したのか。旧約聖書の預言です。旧約聖書で繰り返し預言されてきた事柄がついに成就の時をむけたのです。その預言とは、メシア、救い主によってこの地上に神の国がもたらされるというものです。ですから、イエスさまは続けてこう宣言されました。「神の国が近づいた」

神の国が近づいた」、これは分かるようで分からない表現だと思います。まずは「神の国」という言葉から考えていきましょう。「国」と言うと、私たちはどうしても定められた領土があり、政府がありという現代の国家のようなものを思い浮かべてしまいますけれども、ここで使われている「国」という言葉は、厳密には「王の支配」を意味する言葉です。つまり「神の国」というのはいわゆる「国家」ではなく、神さまという王が支配する領域を意味しているのです。それは言葉を換えれば、神さまの御心が行われている領域とも言うことができます。そこにいるすべての人間、被造物が王である神さまの支配に従い、神さまの御心通りのことが行われている領域、それが「神の国」という言葉の意味です。

その「神の国」が「近づいた」とイエスさまはここで宣言しています。ここで曲者なのが、「近づいた」という言葉です。神の国が「すでに完全に来た」わけではないし、「いまだ来ていない」わけでもない。一体どっちなんだという、非常に曖昧な表現です。

ただしよく考えると、この「近づいた」という表現は確かにその通りだということが分かります。まず、たしかに神の国は完全に来たわけではありません。なぜかと言うと、この世界には神さまの支配を認めない人々が大勢いますし、神さまの御心が地上で行われているとは到底言えないような現実があるからです。それはこの世界の歴史を見ても明らかです。イエスさまがこの地上に来られた後も、それまでと変わらず多くの戦争が行われ、神さまの御心に反することが多く行われてきました。

けれども、神の国はこの地上にはまだ全く存在していないのでしょうか。そうではありません。なぜか、それは神の国の王であるイエスさまがこの地上にすでに来られたからです。旧約からずっと預言されてきたメシア、救い主が、王として地上に来られ、神の国をこの地上に打ち立ててくださったのです。そして、神の国は王なるイエス・キリストによって、確かに完成に向けて動き出したのです。それが「近づいた」ということの意味です。確かに神の国はまだ完成していません。けれども、神の国はイエスさまによって確かにこの地上にもたらされたのです。それこそが福音です。神の国が、神の支配がこの地上で確かに始まった。この「よいニュース」、「福音」をイエスさまはその生涯をかけて宣べ伝えたのです。

 

神の国と教会

では、現代を生きる私たちにとって、「時が満ち、神の国が近づいた」というイエスさまの福音の宣告はどのような意味をもっているのでしょうか。この宣告がなされてから約2000後の今、神の国はこの地上にまだ完成していません。神さまの支配を認めない人々はいまだに大勢います。神さまの御心に反することが世界中で行われています。今ニュースになっている人種差別問題を見てもそれは明らかです。神の国はどこにあるのか、そう思いたくなってきてしまいます。

けれども、私たちは神の国がイエスさまによって「近づいた」ことの確かな証拠をもっています。それは何でしょうか。教会です。もちろん、神の国はまだ完成していませんから、教会にも欠けはあります。教会の中にいながらも痛みを覚えることもあるかもしれません。けれども、先週のペンテコステでも確認したように、教会には神の国の王であるイエスさまが聖霊を通していつもいてくださっています。そしてそこには、「神さまの御心がなりますように」と祈り、神さまの御心の通りに生きようと願い、この地上で必死に生きているキリスト者がいます。確かに教会はまだ不完全かもしれません。けれども、そこには確かに神の国、王なるキリストの支配が存在しているのです。

ですから、私たちはこの教会を通して、「神の国が近づいた」という福音の確かさを確認していきたいと思います。そして、この神の国は確かに完成に向かっているということに希望をもちたいと思います。この室蘭市港南町の地では、神の国はまだ小さいかもしれません。20人ほどの小さな神の国です。けれども、この神の国はやがて室蘭全体、北海道全体、日本全体、そして全世界に広がっていき、やがて完成する時が必ず来るとイエスさまは約束してくださっています。そして神の国が完成する時、この世界のすべてが完全な教会になるのです。そこにはもう痛みはありません。神さまの御心が完全に行われる世界が完成するのです。その日を私たちは待ち望んでいきましょう。そしてイエスさまがそうされたように、「神の国は近づいた」という福音を宣べ伝えていきましょう。私たちは今すでに、教会を通して、神の国の福音に確かに生かされているからです。

このブログの人気の投稿

マルコ14:27-31「羊飼いイエス」

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」