使徒の働き2:1-4「教会の誕生日」

 

今日はペンテコステ礼拝です。キリスト教には三大祝祭(行事)と呼ばれるものがありますが、クリスマス、イースターに続いて三つ目に来るのがこのペンテコステです。今日の箇所の1節では「五旬節の日に」とありますが、ここで「五旬節」と訳されている言葉は元のギリシア語だと「ペンティコスティー」という言葉でして、それがラテン語やら英語やらになって、この日本でも「ペンテコステ」と呼ばれるようになりました。

ではこの「ペンテコステ」とはどのような日なのでしょうか。その元々の由来や語源を説明すると少し長くなってしまうので今日はしませんが、この「ペンテコステ」という日は「教会の誕生日」とも呼ばれる日です。もちろん目に見えるそれぞれの教会にはそれぞれの「誕生日」があります。この教会ですと、宣教師のボーリン先生ご夫妻がモンゴルから小橋内町に来られ、伝道活動が始まった1951年の秋が誕生日になるかと思います。ただ、より大きな教会、歴史を貫いて世界中に広がっている教会という存在そのものが誕生した、というのがこの「ペンテコステ」の日になります。そしてその教会誕生のエピソードを記しているのが今日の箇所になりますが、別に今日の箇所では誰かが「よし、今日から教会を始めます!」と宣言しているわけでもありませんし、そもそも「教会」という言葉自体は出てきません。ではなぜこの日が「教会の誕生日」と呼ばれているのでしょうか。今日私たちはそのことを考えながら、教会とはどういう存在なのかということを、この御言葉から改めて教えられていきたいと思います。

 

1. キリストがその内におられる群れ

まずは1節を見ていきましょう。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた」とあります。その前の115節には「百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」とありますが、おそらく五旬節の日も同じようなメンバーで集まっていたのだと思います。その120人というのは、12弟子を中心としてずっとイエスさまに付き従ってきた人々でしたから、それはそれは熱心なキリスト者だったはずです。しかし、この群れはまだ「教会」ではありませんでした。なぜかというと、そこにはある決定的な存在が欠けていたからです。それは、イエスさまです。これまで彼らの交わりの中心にはいつもイエスさまがいました。けれども、イエスさまは復活された後に天に昇られてしまった。もうそこにはいません。弟子たちはとても心細かったと思います。だからこそ、120人という大人数で集まっていたのかもしれません。

しかし、そこで事は起こりました。2,3節「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」「教会」が誕生した瞬間です。ここで突然激しく吹いた風、そして炎のような舌とは、聖霊のことです。聖霊が天から降って来て、一人ひとりの上に留まったその瞬間、この地上で初めての新約の「教会」が誕生したのです。

では、聖霊が降るとは果たしてどういうことでしょうか。そこで考えたいのは、聖霊とは果たしてどのようなお方かということです。聖霊とは決して空中にふわふわ浮いているような、お化けみたいな存在ではありません。聖霊とは、イエスさまの霊、御霊みたまのことです。それがよく分かるのが、ヨハネの福音書1416節です(新214頁)。そこでイエスさまは弟子たちにこのように約束しておられます。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」この前後の箇所でイエスさまは、ご自分が復活された後にこの地上を離れて天に昇られることを予告しておられます。けれども、自分がいなくなっても弟子たちがしっかりと立っていけるように、イエスさまはご自分の霊である聖霊を天から遣わしてくださると約束されたのです。そして今日のこのペンテコステの日に、その約束が現実となりました。天に昇られたイエスさまは、聖霊を降らせることによって、聖霊を通して弟子たちといつまでも一緒にいてくださるという約束を現実のものとしてくださったのです。

このことから、私たちは教会とはどういう存在なのかというのが分かります。教会とは単なる信仰者の集まりではありません。礼拝が毎週あって、説教と聖礼典(洗礼と聖餐)が行われていればそれが自動的に教会となるのではありません。教会を教会たらしめるのは、そこに復活のイエス・キリストが聖霊を通しておられるということです。逆に言えば、たとえどんなに小さな群れであっても、そこにキリストが聖霊を通しておられるなら、その群れは立派な真の教会なのです。この港南福音教会もそうではないでしょうか。ですから私たちはこの「教会」に集う時、今ここに、この場にキリストが聖霊を通しておられるという、キリストのリアリティをいつも大切に意識していきたいのです。そして今ここにおられるキリストが喜ばれる礼拝をいつもささげていきたいと願います。

 

2. キリストを証しする群れ

ですが、教会はそこでは終わりません。キリストが聖霊を通してその内におられる教会は、自然とある方向へと向かっていくことになります。そこで注目したいのは4節です。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」これはとても不思議な現象です。集まっていた120人ほどの人が一斉に違う言語を話し始めたわけですから、相当カオスな状態だったと思います。けれどもここで大切なのは、皆が他国の色々なことばで話し始めたという現象そのものではありません。この現象は一時的なものだったからです。むしろここで大切なのは、この現象がどういう目的で起こったのかということです。そのヒントを私たちは11節から読み取ることができます。11節の後半では、「それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」とあります。つまり、ここで弟子たちはわけのわからないことを外国語で話し始めたのではなくて、神さまの大きな御業を色々な言語で語ったのです。このことからも、私たちは教会の本来の姿を見ることができます。教会はキリストの聖霊を受けてそれで終わりではなく、そこから神さまの御業を証しする共同体になっていくのです。そしてここで色々な言語が出て来たように、教会は自分たちの国だけでなく、世界中に神さまの御業を証しする共同体となっていったのです。

今日は私たちが所属している同盟教団では、毎年このペンテコステの日を「国外宣教デー」としても覚えて、特別な祈りと献金の時をもっています。同盟教団では現在6組の宣教師が世界各国に遣わされています。この宣教師の先生方は、決して自分だけの思いで宣教師になって、それぞれの国に独立して遣わされているわけではありません。この先生方は教会の集まりである教団の承認を経て、教会の按手というものを受けて遣わされています。それはつまり、私たち同盟教団の教会の代表としてそれぞれの宣教地に遣わされているということです。なぜなら、国外宣教というのは志が与えられた人だけがするものではなくて、今日の箇所を見ても分かるように、教会の本来の使命として私たちに与えられているものだからです。だから私たちは教会としてこの宣教師の先生方のために祈り、支えていきたいのです。

皆さんの多くはすでにご存知かと思いますが、私は宣教師の子どもとして2004年から2018年の14年間を過ごしました。その間、宣教報告などで同盟教団の教会を回る機会がたくさんあったのですが、毎回印象的だったのは、どこに行っても必ずどなたか一人は私の顔を見て「あぁ、謙治くん!祈ってましたよ」と声をかけてくださったことです。私はその「祈ってましたよ」という短い一言によって、大きな励ましを毎回受けていました。台湾にいた時は日本人コミュニティから完全に遮断されていたので、孤独を感じることも多かったのですが、日本に帰ってくるたびにそのように声をかけてくださる方がいて、自分は一人ではないんだ、自分たちは教会によって遣わされ、祈られ、支えられているのだということをいつも心から実感することができたのです。それは私たち家族にとって本当に大きな励ましであり、慰めでした。

先ほども申し上げたように、現在同盟教団からは6組の宣教師が、私たちを代表して、世界の各国に神さまの御業を証しするために遣わされています。この宣教師の先生方の存在によって、私たちはこの室蘭の地にありながらも、神さまの大きな世界宣教の業に加わることができるのです。これはすごいことだと思います。ですから、私たちはこの宣教師の先生方のことをいつも覚えて祈り、支え、神さまの大きな世界宣教の業にますます加えられていきたいと願います。それこそが、キリストの御霊を受けた私たち教会に託されている使命だからです。

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