マルコ1:9-11「あなたはわたしの愛する子」

(コロナ禍による緊急事態宣言の影響により在宅主日礼拝を実施した際の配布原稿)


おはようございます(あるいはこんにちは、こんばんは)。いまだ共に集えない中にありますが、このように原稿を通してでも皆さまと同じ御言葉に聴けることを主に感謝します。

今日でマルコの福音書からの説教も3回目になります。先週はマルコ1:2-8のバプテスマのヨハネの物語から、悔い改めこそが真の福音への備えであることを学びました。今週はその続きで、いよいよ救い主イエス・キリストご本人の登場です。8節でヨハネは「この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります」と言っていますから、人々はさぞかし大きな期待をもっていたことでしょう。都エルサレムの華やかな宮殿からやって来て、偉大な力を持って天から聖霊を激しく降らせ、瞬く間にイスラエルの国をまとめ上げる、そんな劇的な登場を期待していたかもしれません。

しかし実際はどうだったのでしょうか。9節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。」拍子抜けと言っていいでしょう。「ガリラヤのナザレ」は当時の聖書以外の文献には全く登場しない、「ド」がつくほどの田舎町でした。そんな田舎からやって来たというだけでも人々の期待を裏切るには十分でしたが、それに加えて、「ヨハネからバプテスマを受けられた」とあります。聖霊によってバプテスマを授けてくださるはずの救い主が、なぜ他の罪人たちと同じようにヨハネからバプテスマを受けているのか。これでは私たちと何ら変わりがないではないか。人々はそう思ったはずです。

けれども、その失望は途端に驚きへと変わります。10節「イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった」。この驚くべき出来事は、旧約聖書においてすでに預言されていたことでした。「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒すため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」これはイザヤ書61:1に記されている、メシア、すなわち救い主キリストに関する預言です。天が裂けて御霊が降って来るという出来事を通して、このイエスこそが旧約聖書から預言されていた真の救い主キリストなのだということが明らかにされたのです。

そしてそれだけではありません。旧約聖書の預言の成就だけでなく、父なる神さまは自らのことばで、このイエスこそが神の子キリストであることを宣言します。11節「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。実はこのことばも元々は旧約聖書に記されていることばなのですが(詩篇2:7-9、イザヤ42:1)、父なる神さまは天からそのことばを語ることによって、ご自分とイエスさまの特別な関係性を明らかにされたのです。

「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。このことばに私たちはどのような姿勢で耳を傾けるでしょうか。このことばは、父なる神さまがひとり子であるイエスさまに向けて語ったことばです。本来であれば私たちとは何の関係もないことばでしょう。罪に汚れた私たちは、本来神さまの子どもではないからです。しかし、イエス・キリストを信じている私たちは、「あなたはわたしの愛する子」という神さまの呼びかけを、私たち自身にも語られていることばとして聴くことができます。それを「福音」として聴くことができます。それはなぜか。イエスさまがその道を開いてくださったからです。イエスさまは世の初めから神のひとり子であったにもかかわらず、人の姿をとってこの世界に来てくださいました。都エルサレムの華やかな宮殿からではなく、ガリラヤのナザレという田舎から、「普通の人」として姿を現してくださいました。そしてご自身に罪はなかったにもかかわらず、罪にまみれた人間と同じように、ヨハネからバプテスマを受けてくださいました。イエスさまはそのようにして、私たちと同じ道を歩んでくださったのです。そして同じ道を歩むだけでなく、十字架にかかり、私たちの罪を贖うことによって、私たちが洗礼を通して聖なる御霊を受け、神さまの子どもとされるための新たな道を開いてくださったのです

宗教改革の時代に書かれたハイデルベルク信仰問答という教理問答書の問33にはこのように書いてあります。

 

問「わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方(イエス・キリスト)は『独り子』と呼ばれるのですか。」

答「なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。」

 

神の子イエス・キリストを信じ、洗礼を通して御霊を受けた私たちは、イエスさまを長男とする神の家族に加えられる。だからこそ私たちは、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という父なる神さまのことばを、私たちにも語られていることばとして受け取ることができるのです。なんという恵み、なんという福音でしょうか。

イエスさまはこの神さまの愛の宣言を受けて、公の働きに出ていかれました。私たちも同じように、この神さまの愛の宣言を受けて、「神の子ども」としてのアイデンティティを明確にもって、今週もこの世界の歩みに踏み出していきたいと願います。この世界には人の価値を否定するような声が溢れているかもしれません。自分自身に絶望し、自分の価値を見出せなくなることがあるかもしれません。しかし、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」、この神さまの愛の宣言は決して変わることがありません。イエスさまによって、そして聖霊を通して、私たちは神の家族の永遠の愛の交わりに加えられたからです。その愛の交わりの中で、神さまの愛をたくさん受けながら、神さまに喜ばれている「神の子ども」として、今週1週間も神さまと共に歩んでまいりましょう。

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