マルコ1:2-8「福音への備え」

 (コロナ禍による緊急事態宣言の影響で在宅礼拝を実施した際の配布原稿)

おはようございます(あるいは「こんにちは」「こんばんは」の方もいらっしゃるでしょうか)。共に会堂に集うことができない中にありますが、このように説教原稿を通してみなさまと同じ御言葉に聴き、同じ御言葉に養われて1週間をスタートできることを主に感謝しています。

今日私たちに与えられている御言葉は、マルコの福音書12-8節です。先週は11節から、「福音」とは「よいニュース」という意味であり、私たちにとっての真の「よいニュース」は神の子イエス・キリストによって始まったのだということを学びました。今日の箇所からは、その「よいニュース」の具体的な内容に入っていきます。

ただし、「よいニュース」はいきなりイエスさまの話から始まるわけではありません。今日の箇所をお読みいただくと分かるように、マルコの福音書では「預言者イザヤの書」の引用から「よいニュース」の説明が始まります。2-3節をもう一度読みましょう。

 

2預言者イザヤの書にこのように書かれている。

「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。

3荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 

この箇所では、ある一人の存在について言われています。それは、神の子であるイエスさまがこの世界に来られるための備えをする人です。ではそれは誰なのかということで、4節からバプテスマのヨハネについての話が始まります。バプテスマのヨハネの役割とは、イエスさまを迎えるための備えをすることだったのです。

では、バプテスマのヨハネは具体的にどのような備えをしたのでしょうか。一つ目は、イエスさまの存在を証しするということです。7-8節にはこうあります。

 

7ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。

私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。

8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、

この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 

このように、ヨハネは後に来るイエスさまの存在を明確に指し示しました。「私よりもずっと素晴らしい方がもうじき来られる。その方こそ、私たちがずっと待ち望んできた救い主です!」と、ヨハネはイエスさまが救い主として来られることを予告し、人々にイエスさまを迎え入れる備えをさせました。救い主が来られるという予告、まさに「福音」「よいニュース」です。

では、ヨハネがした二つ目の備えはなんでしょうか。4節を読みましょう。

 

4バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 

ヨハネがした二つ目の備え、それは人々の罪を指摘し、悔い改めを迫るということでした。それを受け、人々は自分の罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けたと5節に書いてあります。

ただし、ここで一度立ち止まってよく考えてみたいと思います。先程の一つ目の備え、「救い主が来られることの予告」が「福音」であるというのはよく分かります。人々は喜びに心躍らせたことでしょう。しかし、二つ目の備え、「人々の罪を指摘し、悔い改めを迫る」ということのどこが「福音」「よいニュース」なのでしょうか。「イエスさまを喜び迎えなさい!」であれば分かります。けれども、「あなたがたは罪深いのです!今すぐに悔い改めなさい!」という宣言。こんなことを言われて喜ぶ人がどこにいるでしょうか。これはむしろ福音の真逆、「悪いニュース」「残念なニュース」ではないでしょうか。

たしかに、悔い改めが悔い改めで終わってしまうのであれば、それは福音ではありません。しかし、悔い改めの先に続くものがあるとすればどうでしょうか。ここで私たちは悔い改めの先に約束されているものを確認したいと思います。

 

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

(イザヤ書55:7

 

背信の子らよ、立ち返れ。

わたしがあなたがたの背信を癒そう。

(エレミヤ書3:22

 

悔い改めの先に約束されているもの、それは主の赦しと癒しです。神さまは義なるお方ですから、私たちの罪を放っておかれることはしません。罪は必ず罰せられます。しかし、神さまは同時に憐れみに満ちておられる方でもあります。もし私たちが自分の罪を認め、神さまに立ち返り、心から悔い改めるならば、神さまは必ず私たちの罪を赦し、私たちを癒してくださるのです。今日のマルコの箇所でもその約束は変わりません。ヨハネが宣べ伝えたのは単なる「悔い改めのバプテスマ」ではなく、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(1:4)だからです。

真の福音は悔い改めから始まる。このことを私たちは今日改めて覚えたいと思います。もちろんそこには痛みが伴うでしょう。葛藤があるでしょう。しかし、その先には必ず神さまの赦しと癒しがあります。なぜなら、心から悔い改める者たちのところにこそ、イエスさまは救い主として来てくださるからです。そこに真の福音が、真の喜びが生まれるのです。

今日の説教題は「福音への備え」としました。私たちがイエスさまの福音を「福音」「よいニュース」として受け取るにはどのように備えたらよいのか。それは、悔い改めの心をもつことです。これは1回に限ったことではありません。私たちの生涯を通して続けていくことです。その中で、私たちはイエスさまの福音をより豊かに、より大きな喜びとして受け取っていくことができるようになるのです。悔い改めの心をもちながら、イエスさまの輝かしい福音の約束へと向かっていく、そのような1週間の歩みを今週も送っていきましょう。

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