マルコ1:12-13「荒野の経験」

(コロナ禍による緊急事態宣言の影響により在宅主日礼拝を実施した際の配布原稿)

 「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがあります。辞典によれば、「我が子が可愛いなら、親の元に置いて甘やかすことをせず、世の中の辛さや苦しみを経験させたほうがよい」という意味。これはまさに今日の聖書箇所にぴったりと当てはまる言葉です。先週の聖書箇所(1:9-11)でイエスさまはバプテスマを受け、天の父なる神さまから「あなたはわたしの愛する子」という神の子としての愛の宣言を受けました。その愛の宣言を受けて、いざメシア(救い主)としての公の働きに出ていこうとしていたその矢先、「御霊はイエスを荒野に追いやられた」(12節)のです。ここで「追いやられた」と訳されている言葉は、元々「外に放り出す」という意味をもった言葉です。イエスさまはご自分の意志で荒野に向かったのではなく、ある意味強制的に御霊によって荒野へと「追いやられた」のでした。

私は神学校に在籍していた時に一度イスラエルスタディツアーに参加したのですが、ツアーの中で最も印象に残っている場所の一つに、この「荒野」があります。そこは想像以上に厳しい場所でした。草木は一本もなく、そこに住んでいる人は一人もいません。もちろん水も食料もありません。そして13節にもあるように、そこには危険な「野の獣」が存在しています。自分の力だけでは決して生きていくことのできない場所、それが「荒野」です。イエスさまは神さまの愛する独り子であったにもかかわらず、そのような厳しい場所に御霊によって「追いやられた」のです。

これは、イエスさまによって神の子どもとされた私たちも経験することではないでしょうか。洗礼を受けて神の子どもとされ、これからどんなに輝かしい生活が待っているかと思いきや、実際に待ち受けていたのは辛いことばかあり。神の子どもとされたからと言って、苦労や挫折がなくなるわけではありません。むしろ世との戦いによって、以前よりも厳しい環境に置かれる、そういったことがあるかもしれません。私たちはそのようにして、イエスさまが経験されたように、御霊によって「荒野に追いやられる」経験をすることがあると思うのです。

しかし、ここで私たちは聖書の中で「荒野」という場所がもっている特別な意味に目を留めたいと思います。先ほど申し上げたように、荒野というのは非常に厳しい環境です。大きな危険が潜んでいる場所です。その中で人は孤独と不安に支配されます。そしてそこで問われるのです。自分は何に依り頼んで生きているのか、と。出エジプトを果たしたイスラエルの民は、40年間荒野をさまよう中で、そのような問いと向き合い続けました。そしてその荒野の40年間を通して、自分たちは神さまに依り頼むほか生きていく術がないことを体験的に知ったのです。そのようにして荒野は、一方では孤独と苦難の場所でありながら、もう一方では神さまとの出会いの場所、神さまへの信頼を学ぶ場所として、聖書の中で特別な意味をもつようになったのです。

けれども、「そんなこと頭では分かっていても…」というのが私たちの多くの正直なところだと思います。荒野の経験の意味が分かったとしても、実際に荒野の試練を乗り越えるのは容易なことではないからです。そこで、私たちは13節の後半に注目したいと思います。「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」。私たちと同じように荒野の経験をされたイエスさまは、決して一人ではありませんでした。父なる神さまは御使いを通して、愛する我が子であるイエスさまを野の獣から守り、必要な助けを与えてくださったのです。それと同じように、私たちの天のお父さまは、神の子どもである私たちを御霊によって荒野の旅に追いやったまま、自力で這い上がってくるまで放って置かれる方ではありません。神さまは必ず私たちに必要な守りと助けを備えていてくださっているのです。

このマルコ1:13は、詩篇91篇と深い繋がりをもっているとされています。詩篇91篇は、主に信頼する者に与えられる主の確かな守りと祝福について歌われている詩です。この詩篇のことばを深く味わいながら、私たちは今週1週間の歩みに踏み出していきたいと願います。踏み出す先は荒野の道かもしれません。しかし、父なる神に信頼する者には、必ず豊かな守りと助けが与えられると聖書は約束しています。

 

わざわいは あなたに降りかからず

疫病も あなたの天幕に近づかない。

主が あなたのために御使いたちに命じて

あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。

彼らはその両手にあなたをのせ

あなたの足が石に打ち当たらないようにする。

あなたは 獅子とコブラを踏みつけ

若獅子と蛇を踏みにじる。

 

「彼がわたしを愛しているから

わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから

わたしは彼を高く上げる。

彼がわたしを呼び求めれば

わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて

彼を救い 彼に誉れを与える。

わたしは 彼をとこしえのいのちで満ち足らせ

わたしの救いを彼に見せる。」

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」